かぐや姫の物語の翁は竹取物語とどう違う?

かぐや姫の物語の翁は竹取物語とどう違う?

平安時代から千年以上も語り継がれてきた『竹取物語』は、日本最古の物語として多くの人々に親しまれてきました。

そして2013年、スタジオジブリの高畑勲監督が『かぐや姫の物語』として映画化し、大きな話題となりましたよね。

原作の『竹取物語』を読んだことがある方なら、映画を見て「翁の描かれ方がちょっと違うな」と感じたかもしれません。

この記事では、原作『竹取物語』と映画『かぐや姫の物語』における翁の人物像や役割の違いについて、詳しく解説していきます。

両作品を比較することで、それぞれの物語が伝えたかったメッセージの違いも見えてきますよ。

結論:翁の描かれ方は大きく異なる

結論:翁の描かれ方は大きく異なる

『竹取物語』と『かぐや姫の物語』では、翁の人物像や動機が大きく異なります

原作『竹取物語』の翁は、竹林で光る竹の中から手のひらサイズのかぐや姫を見つけ、妻の嫗(おうな)とともに育てる竹取りの職人です。

かぐや姫の成長とともに竹から黄金を得て富を築き、姫を高貴な姫君として育て上げようとします。

一方、映画『かぐや姫の物語』の翁は、かぐや姫を都で高貴な姫君にすることに執着する父親として描かれています。

姫の幸せよりも世間体や身分の向上を優先し、結果的にかぐや姫を苦しめてしまう存在として表現されているんですね。

この違いは、作品が作られた時代背景や、制作者が伝えたかったメッセージの違いから生まれたものなんです。

なぜ翁の描かれ方が違うのか

なぜ翁の描かれ方が違うのか

原作『竹取物語』における翁の役割

9世紀後期から10世紀初頭に成立したとされる『竹取物語』では、翁は物語の語り手として比較的客観的に描かれています。

竹取の翁は、ある日竹林で光る竹を見つけ、その中から三寸(約9センチ)ほどの少女を発見します。

子どもがいなかった翁夫婦は、この不思議な少女を「なよ竹のかぐや姫」と名付けて大切に育てました。

その後、翁が竹を取るたびに竹の中から黄金が出てくるようになり、翁はみるみるうちに裕福になっていきます

原作では、この富を得たことで翁は豪邸を構え、かぐや姫を高貴な姫君として育てることができるようになったと描かれています。

しかし、翁がかぐや姫を貴族として育てようとした動機について、原作では深く掘り下げられていません。

あくまでも「富を得たから相応の生活をさせた」という程度の記述にとどまっているんですね。

映画『かぐや姫の物語』における翁の再解釈

高畑勲監督の『かぐや姫の物語』では、翁の人物像がより人間臭く、そして複雑に描かれています。

映画の翁は、かぐや姫を「お姫様にするために自分のもとに遣わされた」と信じ込み、都での生活に固執します。

山里での自由で楽しい暮らしを望むかぐや姫に対して、翁は「お前のためだ」と言いながら都での窮屈な生活を強いるんです。

この描写は、現代社会における親子関係の問題、特に「親が子どもに自分の価値観や期待を押し付けてしまう」という普遍的なテーマを反映しています。

高畑監督は原作を単に映像化するのではなく、現代の観客に響くメッセージを込めて翁のキャラクターを作り上げたとされています。

時代背景が生んだ描写の違い

原作が成立した平安時代と、映画が制作された2013年では、社会構造や価値観が大きく異なります。

平安時代の『竹取物語』は、貴族社会の風刺や月の世界と地上の対比を描くことに主眼が置かれていました。

翁は物語を進行させる役割として登場し、かぐや姫に求婚する貴族たちの滑稽さを際立たせる存在でもあったんですね。

一方、21世紀の映画では、個人の幸福や自己実現、親子関係といった現代的なテーマが重視されています。

高畑監督は、翁を単なる物語の進行役ではなく、善意から娘を苦しめてしまう父親として描くことで、より深い人間ドラマを生み出しました。

この再解釈は、原作の持つ普遍性を損なうことなく、現代の観客にも共感できる物語へと昇華させる試みだったと言えるでしょう。

具体的な場面での翁の違い

かぐや姫発見時の反応

原作『竹取物語』では、翁がかぐや姫を見つけた場面は比較的淡々と描かれています。

「この子を見つけたのは私が育てるべきだからだ」という程度の認識で、神秘的な出来事として受け入れています。

映画『かぐや姫の物語』では、この場面がより感動的に、そして運命的に描かれているんですね。

翁は光る竹の中から現れた赤ん坊を見て、「天が授けてくださった」と確信し、涙を流して喜びます

この違いは、映画が翁の父性や感情をより前面に出していることを示しています。

都への引っ越しの場面

原作では、かぐや姫が美しく成長したため、翁が豪邸を構えて姫としての生活を始めさせたという記述があります。

かぐや姫の意志や感情についてはほとんど触れられておらず、自然な流れとして描かれています。

映画では、この都への引っ越しが物語の大きな転換点として重要に扱われています

山里で捨丸たちと楽しく過ごしていたかぐや姫は、突然の引っ越しに戸惑い、悲しみます。

翁は「お前を高貴な姫にするために」と説得しますが、かぐや姫の本当の気持ちには気づいていません。

この場面では、翁の善意と無理解が同時に描かれ、親子のすれ違いが印象的に表現されているんですね。

求婚者への対応

原作『竹取物語』では、5人の貴族たちが求婚してきた際、翁は彼らを歓迎し、かぐや姫に結婚を勧めます。

翁は「これほどの高貴な方々の求婚を断るべきではない」と考え、姫を説得しようとするんです。

しかしかぐや姫は、それぞれに不可能な難題を課し、結果的に全員の求婚を退けることになります。

映画『かぐや姫の物語』でも基本的な流れは同じですが、翁の動機がより明確に描かれています。

翁はかぐや姫を高貴な貴族と結婚させることで、自分の人生の目的を達成しようとしている様子が描かれます。

「やっとお姫様らしくなった」と喜ぶ翁と、窮屈な生活に息苦しさを感じるかぐや姫の対比が、この場面でより鮮明になっているんですね。

帝の求婚の場面

原作では、5人の貴族の求婚を退けた後、帝(みかど)自らがかぐや姫に関心を示します。

翁は大いに喜び、「帝のお召しならば断ることはできない」とかぐや姫に伝えます。

帝との間で和歌のやり取りがあり、かぐや姫は丁重に断りながらも、ある種の敬意を持って対応しています。

映画では、この場面がより劇的に、そしてかぐや姫にとって屈辱的な出来事として描かれます。

帝の訪問シーンでは、かぐや姫が無理やり顔を見られそうになり、深い絶望を感じる場面として表現されているんです。

この出来事が、かぐや姫が月への帰還を願うきっかけの一つとなっています。

月への帰還を知った時の反応

原作『竹取物語』では、かぐや姫が月を見て泣くようになり、やがて「八月十五日に月から迎えが来る」と告白します。

翁は深く悲しみ、帝に助けを求めて兵を配置してもらいますが、天人の力には勝てませんでした。

翁の悲しみは描かれていますが、自分の行動を振り返る場面はありません。

映画『かぐや姫の物語』では、翁が初めてかぐや姫の本当の気持ちに気づく瞬間が描かれます。

「私が間違っていたのか」と自問する翁の姿は、原作にはない要素です。

しかし、気づいた時にはすでに遅く、かぐや姫を引き留めることはできません。

この後悔と無力感が、映画の翁をより人間的で、観客の共感を呼ぶキャラクターにしているんですね。

翁の描写から見える作品のテーマの違い

原作『竹取物語』のテーマ

平安時代に成立した『竹取物語』は、いくつかの重層的なテーマを持っています。

まず第一に、貴族社会への風刺があります。

5人の求婚者たちは、それぞれ偽物を用意したり、嘘をついたりして難題をクリアしようとしますが、全員が失敗します。

これは当時の貴族たちの虚栄心や不誠実さを皮肉った内容だとされています。

また、月の世界と地上の世界の対比も重要なテーマです。

月の世界は清浄で感情のない世界として描かれ、地上は穢れているが感情豊かな世界として表現されています。

かぐや姫は地上で人間的な感情を得ますが、天の羽衣を着ることでそれを失い、月へ帰ってしまいます。

翁は、こうした壮大なテーマの中で、物語を進行させる役割を担っているんですね。

映画『かぐや姫の物語』のテーマ

高畑勲監督の映画では、「生きることの喜びと苦しみ」「自由と束縛」といったテーマが前面に出ています。

山里での自由な暮らしを奪われたかぐや姫が、都での窮屈な生活に苦しむ姿が丁寧に描かれます。

翁は善意から娘を「幸せ」にしようとしますが、それはあくまで翁が考える幸せであり、かぐや姫の本当の幸せではありませんでした。

この構図は、現代の親子関係にも通じる普遍的な問題を提起しています。

「子どものため」という言葉の下で、親が子どもに自分の価値観を押し付けてしまうことの危険性が描かれているんです。

また、映画では「罪と罰」というテーマも重要です。

かぐや姫が月の都で何らかの罪を犯し、その罰として地上に降ろされたという設定が暗示されています。

地上での生活は辛いものでしたが、同時に喜びや愛情を知ることができた貴重な経験でもあったという解釈ができるでしょう。

SNSや評論での反応

映画『かぐや姫の物語』が公開された2013年以降、SNSや映画評論サイトでは翁の描写について多くの意見が交わされました。

「翁が毒親すぎて見ていて辛かった」という声や、「善意だけど理解がない父親のリアルさに胸が痛んだ」といった感想が多く見られます。

一方で、「翁も時代の価値観の中で精一杯だったのでは」という擁護的な意見もあります。

映画評論家の間では、高畑監督があえて翁を完全な悪役にせず、善意からの過ちを描いたことが高く評価されています。

単純な善悪ではなく、人間の複雑さと親子関係の難しさを表現したことが、作品の深みを増しているという指摘もあるんですね。

また、富士山の扱いについても話題になりました。

原作では、帝がかぐや姫から受け取った不死の薬を富士山で燃やし、その煙が今も昇っているという結末があります。

しかし映画では、この富士山のエピソードは描かれていません。

高畑監督は、かぐや姫と翁の関係性に焦点を当てるため、帝とのエピソードを簡略化したとされています。

文学研究者の分析

2020年代の文学研究では、『竹取物語』の翁について新たな解釈も提示されています。

一部の研究者は、原作の翁も実は自己満足のためにかぐや姫を利用していた可能性を指摘しています。

竹から黄金を得て富を築いた翁が、かぐや姫を高貴な姫にすることで社会的地位を得ようとしていたという見方ですね。

ただし、これはあくまで一つの解釈であり、原作の簡潔な記述からは明確な答えは得られません。

高畑監督の映画は、こうした解釈の可能性を映像化したものとも言えるでしょう。

まとめ:作品による翁の役割の違い

『竹取物語』と『かぐや姫の物語』における翁の描かれ方の違いをまとめると、以下のようになります。

  • 原作の翁:物語の語り手的存在で、かぐや姫を育てる養父。富を得て姫を高貴に育てるが、その動機は深く描かれていない。
  • 映画の翁:善意から娘に自分の価値観を押し付けてしまう父親。かぐや姫の本当の幸せを理解できず、結果的に苦しめてしまう存在。

原作は平安時代の貴族社会への風刺や、月の世界と地上の対比といった壮大なテーマを扱っています。

翁はその物語を進行させる役割として、比較的客観的に描かれているんですね。

一方、映画は親子関係や個人の幸福といった現代的で普遍的なテーマを前面に出しています。

翁をより人間的で複雑なキャラクターとして描くことで、観客が自分の経験と重ね合わせられる物語になっているんです。

どちらの翁も、それぞれの作品において重要な役割を果たしており、一概にどちらが良い・悪いとは言えません。

原作は千年以上前の作品でありながら、今なお新しい解釈を生み出し続ける豊かさを持っています。

そして高畑監督の映画は、その原作の持つ可能性を現代の視点で再解釈し、新たな命を吹き込んだ作品と言えるでしょう。

両作品を味わうために

『竹取物語』と『かぐや姫の物語』、どちらも素晴らしい作品ですが、それぞれ異なる魅力を持っています。

原作を読んだことがない方は、ぜひ一度手に取ってみてください。

現代語訳や児童向けの版も多く出版されているので、気軽に読むことができますよ。

原作のシンプルな文章の中に込められた深い意味や、平安時代の人々の感性を感じ取ることができるはずです。

そして映画『かぐや姫の物語』は、何度見ても新しい発見がある作品です。

水彩画のような美しい映像美と、繊細な感情表現は、見るたびに心に響くものがあります。

特に、親子関係について考えるきっかけを与えてくれる作品でもあるんですね。

原作を読んでから映画を見ると、高畑監督がどのような意図で翁のキャラクターを再構築したのかがより深く理解できるでしょう。

逆に、映画を先に見てから原作を読むと、原作の簡潔さと奥深さに驚くかもしれません。

どちらから入っても、二つの作品を比較することで、かぐや姫の物語の持つ普遍的な魅力がより一層感じられるはずです。

千年以上も語り継がれてきた物語には、時代を超えて人々の心を揺さぶる何かがあります。

あなたも『竹取物語』と『かぐや姫の物語』の世界に触れて、翁とかぐや姫の関係性について、自分なりの解釈を見つけてみてはいかがでしょうか。

キーワード: かぐや姫の物語,翁,竹取物語