
スタジオジブリの映画『かぐや姫の物語』を観た多くの人が、強烈な印象を受けるシーンがあります。
それは、かぐや姫が髪を振り乱し、着物を脱ぎ捨てながら激しく走り続ける場面です。
平安時代の高貴な姫が、なぜあれほどまでに必死に走ったのでしょうか。
実はあの「走り」には、単なる移動ではない、深い意味が込められているんです。
抑圧からの解放、生命力の爆発、そして「ここではないどこか」への希求——高畑勲監督が描いたかぐや姫の走りは、現代を生きる私たちの心にも響くメッセージが詰まっています。
この記事では、かぐや姫がなぜ走ったのか、その理由を詳しく解説していきますね。
かぐや姫が走った理由

かぐや姫が激しく走ったのは、ジェンダーや身分制度からの抑圧に対する反逆、抑え込まれた感情と生命力の爆発、そして「ここではないどこか」への希求という三つの意味が重ねられているからです。
平安時代の貴族社会では、高貴な姫が走ること自体がタブーでした。
走るのは身分の低い者のしるしとされていたんですね。
そんな時代に、かぐや姫は自らのタブーを破り、全力で走り出します。
これは単なる逃走ではなく、「自分の人生を自分で選びたい」という強い意志の表現なんです。
なぜ走ることが重要な表現だったのか

平安貴族社会でのタブー破り
平安時代の貴族世界では、高貴な姫が走ること自体が「ありえない」行為とされていました。
女性、特に高貴な身分の女性は、御簾の内側に隠れて生活し、外を自由に歩くことすら許されない存在だったんです。
ましてや、髪を振り乱して走るなど、考えられないことでした。
実は原作の『竹取物語』には、かぐや姫が走り回る描写は一切ありません。
つまり、あの激しい疾走は映画オリジナルの大きな特徴なんですね。
高畑勲監督は、意図的にこの「走る」という行為を描くことで、何かを伝えようとしたんです。
宴のシーンでの絶望的な疾走
特に印象的なのが、都での宴のシーンです。
かぐや姫は御簾の内側に閉じ込められ、自分の美しさを「見世物」にされそうになります。
自分の意志とは関係なく、高貴な男性との結婚を前提に品定めされる——そんな状況に、かぐや姫は耐えられなくなるんです。
怒りと悲しみ、そして嘆きから、彼女は貝を割って外へ飛び出します。
絵コンテでは、この感情を「怒りと悲しみ」「嘆き」と記されているそうです。
女性であるがゆえに押しつけられるジェンダー観・結婚観から逃れ、自分の足で生きたいという叫び——それがあの走りに込められているんですね。
現代女性の心情と重なる抵抗
高畑勲監督は、かぐや姫の心情は「現代に生きる女性の心情」だと語っています。
「高貴な男性との結婚=幸せ」という価値観への抵抗が、走る行為に込められているんです。
平安時代の物語でありながら、現代の私たちにも響くのは、この普遍的なテーマがあるからなんですね。
自分の人生を自分で選べない閉塞感、押しつけられる価値観への違和感——そんな思いを抱えたことがある人にとって、かぐや姫の走りは心に刺さる表現になっているんです。
抑圧された感情の爆発として
宴から山へ向かって走るシーンは、アニメーション表現としても特徴的です。
筆致が荒れ、輪郭線が崩れ、背景が溶け出すような描き方がされているんですね。
これは、抑圧された感情の爆発と、圧倒的な生命力を視覚化したものとされています。
里山で野山を駆け回り、季節の変化の中で生きていたころの自由さ——その生きる喜びが一気に噴き出した瞬間でもあるんです。
「自分の人生を自分で選べない」という閉塞感と、「ここではないどこかへ行きたい」という衝動が重なって、走る=生きたい場所へ向かって全力で突き進む行為として描かれています。
「ここではないどこか」への希求
かぐや姫は、野山での暮らしから引きはがされ、望まぬ形で高貴な生活に飲み込まれていきます。
「もうあの頃には戻れない」という絶望の中で、彼女は「ここではないどこか」へ向かって疾走するんです。
興味深いのは、この疾走シーンで、かぐや姫が一気に里山の生家へたどり着くことです。
これは、彼女が地球人ではなく、月の民として人知を超えた力を持つ存在であることの表現とも説明されています。
しかし、戻った先の家には既に別の人が住んでいて、「帰る場所はもうない」ことを思い知らされます。
つまりあの疾走は、自由だった過去への回帰願望と、それが叶わない現実との衝突を一度に見せる装置なんですね。
月と地上のテーマとのつながり
かぐや姫の走りは、物語全体のテーマとも深くつながっています。
彼女の罪は「地上への強い想い・地上を愛したこと」であり、罰は「月へ帰らされる運命」です。
地上で自由に生きたい、この場所で愛する人たちと共に生きたい——その思いが強ければ強いほど、月へ帰らなければならない運命が重くのしかかります。
疾走シーンは、その葛藤を最も激しく、視覚的に表現した場面なんですね。
具体的なシーンから読み解く「走り」の意味
宴からの逃走——怒りと悲しみの疾走
都での宴のシーンは、かぐや姫にとって決定的な転換点でした。
御簾の内側に閉じ込められ、自分の意志とは無関係に、高貴な男性たちの前に「商品」のように晒される——その状況に、彼女の心は耐えきれなくなります。
貝を割って外へ飛び出し、髪を振り乱し、着物を脱ぎ捨てながら走るかぐや姫の姿は、女性に対する社会的な抑圧への激しい抵抗の象徴として描かれています。
この走りは、絶望的で、悲しみに満ちていて、同時に強い怒りも感じられるんですね。
多くの観客が、このシーンに強烈な印象を受け、心を揺さぶられたと言います。
捨丸のもとへの走り——喜びと希望の疾走
都の疾走とは対照的なのが、捨丸と再会する場面での走りです。
求婚してくる貴公子や帝ではなく、一緒に笑い、食事をした相手=捨丸を選び、そのもとへ走ることが描かれます。
この走りには、権威や身分ではなく、自分の心が本当に求める人へ向かう喜びが込められているんです。
「高貴な結婚」からの解放と、ささやかな幸せへの希求——都での絶望的な疾走と対照的に、喜びと希望を帯びた走りとして印象づけられます。
かぐや姫が本当に求めていたのは、身分や財産ではなく、心から笑い合える相手との自由な暮らしだったんですね。
里山への帰還——失われた場所への渇望
かぐや姫が走って戻った里山の生家は、彼女にとって「本当の自分」がいた場所でした。
竹の中から発見され、翁と媼に育てられ、野山を駆け回り、季節の移ろいを肌で感じていた日々——それは何にも代えがたい宝物だったんです。
しかし、走って戻った先の家には既に別の人が住んでいて、「帰る場所はもうない」という残酷な現実を突きつけられます。
過去は過去として失われてしまい、どれだけ走っても、もう戻れない——その絶望感が、このシーンには込められているんですね。
SNSや観客の声
『かぐや姫の物語』を観た多くの人が、この「走るシーン」について語っています。
「かぐや姫が走るシーンで涙が止まらなかった」という声が多く見られます。
ある人は「あの走りは、自分の中にある抑圧された感情が解放される瞬間を見ているようだった」と語っています。
また別の人は「平安時代の姫が走ることの意味を考えたら、どれだけ絶望的な状況だったかがわかる」とコメントしています。
「走るという行為自体が、当時の女性にとってタブーだったと知って、さらに深く理解できた」という声もあります。
多くの観客が、あの走りに自分自身の感情や経験を重ね合わせているんですね。
それだけ、かぐや姫の走りは普遍的で、人の心に響く表現だったということなんです。
高畑勲監督の意図
高畑勲監督は、かぐや姫の心情を「現代に生きる女性の心情」と表現しています。
時代を超えて、女性が直面してきた、そして今も直面している問題——自分の人生を自分で選べない閉塞感、押しつけられる価値観、理想の女性像への抑圧。
それらを、平安時代の物語の中に落とし込み、「走る」という行為で表現したんですね。
だからこそ、この映画は古典でありながら、現代の私たちの心にも深く響くんです。
アニメーション表現としての革新性
疾走シーンのアニメーション表現も、多くの人に衝撃を与えました。
筆致が荒れ、輪郭線が崩れ、背景が溶け出すような描き方——これまでのアニメーションではあまり見られなかった手法です。
この表現により、かぐや姫の感情の激しさ、生命力の爆発が、視覚的に伝わってくるんですね。
「アニメーションでここまで感情を表現できるのか」と驚いた人も多いはずです。
高畑勲監督の挑戦的な表現が、かぐや姫の走りをより印象的なものにしているんです。
まとめ
かぐや姫が激しく走ったのは、単なる逃走ではありませんでした。
それは、ジェンダーや身分制度からの抑圧に対する反逆であり、抑え込まれた感情と生命力の爆発であり、「ここではないどこか」への希求だったんです。
平安時代の高貴な姫が走ること自体がタブーだった中で、かぐや姫はそのタブーを破り、自分の足で生きようとしました。
宴からの絶望的な疾走、捨丸のもとへの喜びに満ちた走り、そして失われた里山への帰還——それぞれの走りに、異なる意味が込められていたんですね。
高畑勲監督が描いた「走り」は、時代を超えて、「自分の人生を自分で選びたい」という普遍的なメッセージを私たちに伝えているんです。
『かぐや姫の物語』をまだ観ていない方は、ぜひこの視点を持って観てみてください。
そして、すでに観た方も、もう一度「走る」という行為の意味を考えながら観直してみると、新たな発見があるかもしれません。
かぐや姫の走りは、私たち一人ひとりの中にある「自由に生きたい」という願いを代弁してくれているんです。
その思いを大切に、自分の人生を自分で選んでいく勇気を持ちたいですね。