
高畑勲監督の映画『かぐや姫の物語』を観て、なぜかぐや姫はあれほど美しいのに幸せになれないのか、不思議に思ったことはありませんか?
実は、この作品では「美人であること」自体が、物語の核心的なテーマになっているんです。
原作『竹取物語』以上に、かぐや姫の美しさが彼女にもたらす苦悩や、男性たちの欲望、そして社会が女性に強いる「理想の美人像」への批判が、繊細に描かれていますね。
この記事では、『かぐや姫の物語』における「美人」というテーマを、物語の構造からフェミニズム的解釈、現代社会への問いかけまで、多角的に解説していきます。
作品をより深く理解したい方、なぜかぐや姫が月へ帰らなければならなかったのか知りたい方に、きっと新しい視点をお届けできるはずです。
結論:美しさは祝福ではなく束縛として描かれている

『かぐや姫の物語』では、美人であることは幸福の条件ではなく、むしろ自由を奪い、個人の主体性を抑圧する社会的束縛として描かれています。
かぐや姫の絶世の美貌は、都じゅうの評判となり、5人の高貴な男性や帝(天皇)までもが彼女に求婚します。
しかし、彼らが求めているのはかぐや姫という人格ではなく、「美しい女性」という所有物でした。
美しさゆえに、かぐや姫は自分の意思とは無関係に、見られ、品定めされ、手に入れたい対象として扱われます。
この作品が問いかけているのは、「美人であることの暴力性」と「女性の身体と人生の決定権」という、現代にも通じる普遍的なテーマなんですね。
高畑監督は、かぐや姫の美しさを単なる魅力ではなく、彼女を苦しめる「罪」として描くことで、社会が女性に押し付ける美の規範と、それに伴う抑圧を鮮やかに浮き彫りにしています。
なぜ美しさが束縛になるのか?作品が描く三つの構造

美貌が引き寄せる男性たちの所有欲
物語の中で、かぐや姫の美しさは「世に比べるものがない」と語られ、噂だけで多くの求婚者を引き寄せます。
5人の身分の高い男たちは、かぐや姫の内面や人格を知ろうともせず、ただ美貌の噂だけで情熱を燃やします。
帝に至っては、女官を派遣して様子を探らせるほど強く惹きつけられていますね。
ここで重要なのは、彼らが求めているのは「かぐや姫という人間」ではなく、「絶世の美女という財産」だという点です。
求婚者たちの行動を見ると分かりますが、彼らは次のような態度を示します。
- かぐや姫の話を聞こうとしない
- 彼女の意思を尊重しない
- 美しい宝物を要求されると、嘘をついてでも手に入れようとする
- 「所有すること」だけが目的になっている
これは、美しい女性を「人格を持った個人」ではなく「欲望の対象」として扱う、古今東西変わらない問題を描いています。
社会が強制する「理想の美人像」への矯正
映画前半で、かぐや姫は山里で裸足で駆け回り、歯を見せて大笑いする、生き生きとした少女として描かれます。
しかし都に上がると、彼女は一気に「完璧な美人の姫」へと変えられていきます。
特に印象的なのが、眉を剃られるシーンです。
かぐや姫は教養・礼儀・化粧など「姫」としての教育を受け、自分の眉を剃られ、白粉を塗られ、「貴族社会の美の規範」に身体を合わせさせられます。
このプロセスは、次のような意味を持っています。
- 女性の身体が自分のものではなく、社会に所有されること
- 自然な姿ではなく、社会から押し付けられた規範的な外見に矯正されること
- 感情表現を抑えた「理想の姫君」へと人格まで変えられること
現代の女性が感じる「女らしさ」「こうあるべき」という圧力と重なる、普遍的な問題として描かれているんですね。
「田舎のかぐや」と「都の美人かぐや」のギャップは、社会が求める美人像と、本人が生きたい素のままの姿との対立を象徴しています。
美しさが「罪」とされる逆説的構図
原作同様、映画でも天人は「かぐや姫は月で罪を犯し、地上に送られた」と語りますが、その罪の中身は明示されません。
作品の分析では、「美しさは罪」という読みが提示されており、これには二重の意味があります。
一つ目は、かぐや姫が多くの求婚者を惑わせ、彼らを破滅させる存在として語られるという点です。
5人の公達は、かぐや姫が要求した難題(実在しない宝物を持ってくること)に挑んで、嘘をつき、失敗し、恥をかきます。
しかしこれは、かぐや姫が悪意で彼らを陥れたのではなく、男たちの愚かさ・欲深さを暴く装置として機能しているんですね。
二つ目は、「あまりに美しく、才能に恵まれたがゆえに周囲をかき乱す存在」という社会不適合性です。
近年の解釈では、かぐや姫の「罪」は次のように読まれています。
- 過剰な美しさ・才能ゆえに、周囲の男たちを惑わせた「社会不適合性」
- 美しさや婚姻制度に従わず、自分の意思で求婚を拒絶した「規範への反逆」
- 男たちにとっての「理想的な美人像」ではなく、自らの生を望んだこと
つまり、「男たちの欲望に応えなかった女性」「従順な美人であることを拒否した女性」としてのかぐや姫の在り方そのものが、社会から「罪」だと見なされているわけです。
地上は罰として送られる「穢れた世界」という意識と、「社会の側がそれを受け入れられず、女性を所有物としてしか見ない」という批判が、この「罪と罰」の構図に込められています。
具体例で見る「美人」というテーマの描かれ方
帝との場面:身体の自由を守るための拒絶
映画の重要な転換点が、帝がかぐや姫に抱きつく場面です。
かぐや姫は強い不快感を示し、その瞬間、画面が暗くなり、彼女は姿を消します。
別の場面では、帝が強引にかぐや姫を連れて帰ろうとしたとき、かぐや姫は眩い光の玉となって帝の手をすり抜け、帝は「ああ、人ではなかったのだ」と連れ去りを諦めます。
この場面が象徴しているのは次のようなことです。
- 「美しい女性の身体は権力者(帝)が所有してよい」という発想への痛烈な否定
- かぐや姫が心身の自由を守るために拒絶し、文字通り「消える」という形で抵抗する
- 当時の権力構造では想像を超えた、女性の自立性の表現
帝(天皇)からの求婚ですらきっぱり拒絶する態度は、自らの身体と人生の決定権を主張する存在としてのかぐや姫を明確に示しています。
現代の視点から見れば、これは性的自己決定権やボディ・オートノミー(身体的自律性)の問題として読み取ることができますね。
毛皮を燃やすエピソード:物質で女性を買おうとする態度への否定
『竹取物語』では、かぐや姫が求婚者の一人・阿部御主人が苦労して取り寄せた高価な皮衣(毛皮)を燃やしてしまう場面があります。
毛皮は当時、富と権威の象徴であり、非常に貴重なものでした。
しかし、かぐや姫は「美しく高価だからこそ燃やす」という行為に出ます。
これは次のような意味を持つと論じられています。
- 物質的な贈り物で女性を買おうとする態度への否定
- 「美しいもの=価値ある財」とみなす男たちの価値観への反発
- かぐや姫自身が「美しい財産」として扱われることへの抵抗
男性が高価な贈り物をすれば女性が喜び、心を許すという発想そのものを、かぐや姫は拒絶しているわけですね。
ここでも、美と所有欲の関係が批判的に扱われており、物質ではなく人格を尊重することの重要性が示されています。
5人の公達への難題:理性的判断で男性を退ける女性像
かぐや姫は、5人の公達にそれぞれ「この世に存在しない宝物」を持ってくるよう要求します。
これは一見、無理難題を押し付ける冷酷な行為に見えますが、実は深い意味があります。
- 蓬莱の玉の枝(燕の子安貝を持つ)
- 火鼠の皮衣
- 龍の首の珠
- 仏の御石の鉢
- 燕の子安貝
これらはすべて実在しない、または入手不可能なものです。
公達たちは、それでも嘘をついたり、偽物を用意したり、危険を冒したりしますが、結局すべて失敗に終わります。
この設定が示しているのは、かぐや姫が「感情的で受動的な女性」というステレオタイプを壊す、能動的・自立的な女性だということです。
彼女は美貌で男たちを魅了しながらも、理性的な判断で求婚者を退ける存在として描かれているんですね。
そして難題は、男たちの愚かさ・欲深さを暴く装置として機能し、「美しい女性を手に入れたい」という欲望だけで突き進む男性たちの本質を明らかにしています。
SNSや評論での反響:フェミニズム作品としての再評価
近年、『かぐや姫の物語』はフェミニズム的作品として再評価されています。
SNSや映画評論では、次のような意見が多く見られます。
- 「かぐや姫が外見を品定めされる屈辱や、『マガイモノ』として扱われることへの怒りと悲しみが痛いほど伝わってくる」
- 「眉を剃られるシーンは、現代女性が感じる『こうあるべき』という圧力そのもの」
- 「美しさを武器にするのではなく、美しさゆえに苦しむ女性の物語として描かれている」
- 「かぐや姫は『美人だから選ばれる/所有される』ことを拒み、自らの身体と人生の決定権を主張する存在」
特に、かぐや姫が自分の意思で人生を選択しようとする姿勢が、多くの女性たちの共感を呼んでいます。
また、「美しい女性を見られ、批評され、所有される対象にされる暴力性」という指摘も多く、現代社会における女性の扱われ方と重ね合わせて語られることが増えています。
映画公開から時間が経つにつれて、この作品が持つフェミニズム的メッセージが、より多くの人に理解されるようになってきているんですね。
かぐや姫の物語が現代に問いかけること
美の規範と女性の身体的自由
『かぐや姫の物語』が描く「美人づくり」のプロセスは、現代社会にも通じる問題を提起しています。
かぐや姫が眉を剃られ、白粉を塗られ、感情表現を抑えた「理想の姫君」へと矯正される様子は、現代女性が経験する次のような圧力と重なります。
- メイクやファッションにおける「女らしさ」の強要
- 体型や容姿に対する社会的プレッシャー
- 「美しくなければ価値がない」という無言のメッセージ
- 自分の身体が自分のものではなく、他者の評価のためにある感覚
女性の身体が社会の規範に合わせて矯正されるという構造は、平安時代も現代も本質的には変わっていないのかもしれません。
見られる対象としての女性とモノ化
作品では、かぐや姫の美しさが彼女自身の内面とは無関係に「男たちの欲望の対象」として扱われます。
これは、女性が「見られる性」として常に評価・批評される立場に置かれるという、ジェンダーの問題と深く関わっています。
現代社会でも、次のような場面で同様の構造が見られますね。
- 女性の容姿が話題の中心になる場面
- 「美人だから得している」という決めつけ
- 容姿による評価が能力や人格よりも優先される状況
- 女性芸能人やアイドルが「所有したい対象」として消費される構造
かぐや姫が経験する「個人の主体性が剥奪される」という暴力性は、美しい女性を「人格を持った人間」ではなく「鑑賞する対象」として扱うことの問題性を鋭く突いています。
自己決定権と自由の尊さ
最終的に、かぐや姫は月に帰ることを選びます。
これは一見、悲しい結末に見えますが、別の解釈も可能です。
地上で「美人の姫」として生きることは、かぐや姫にとって次のような状態を意味していました。
- 自分の意思よりも社会の期待が優先される
- 身体と人生の決定権を持てない
- 常に「見られる対象」として存在する
- 素のままの自分でいることが許されない
月に帰ることは、こうした束縛からの解放を意味しているとも読めます。
もちろん、月では感情を失ってしまうという代償がありますが、自由のない人生を生きるよりも、自分を取り戻すことを選んだとも解釈できるんですね。
この選択は、現代を生きる私たちに「自己決定権と自由の尊さ」を問いかけています。
まとめ:美しさの両義性と女性の主体性
『かぐや姫の物語』における「美人」というテーマは、単なる魅力や幸運の要素ではありません。
この作品では、美しさは祝福ではなく、女性を束縛し、モノ化し、主体性を奪う社会的圧力として描かれています。
かぐや姫は規格外の美人であり、その美がすべての悲喜劇の起点になります。
しかし彼女は、「美人だから選ばれる/所有される」ことを拒み、自らの身体と人生の決定権を主張する存在として描かれているんですね。
作品が批判的に照らし出しているのは、次のような構造です。
- 男たちの欲望や支配欲の対象としての「美人」
- 社会が女性に強いる「理想的な美人像」と、それに伴う矯正
- 美しい女性を「人格」ではなく「所有物」として扱う暴力性
- 女性の身体的自由と自己決定権の剥奪
高畑勲監督は、平安時代を舞台にしながらも、現代にも通じる普遍的な問題を描き出しています。
「美人であることの罪」とは、社会が女性を人格ではなく外見で判断し、所有しようとすることの罪なのかもしれません。
そして、かぐや姫が求婚の拒否、帝の抱擁の拒絶、美の規範への違和感を通じて訴えているのは、自らの心身の自由と、一人の人間として尊重される権利です。
この作品は、「美人であること」を軸に、女性の主体性・身体の自由・フェミニズム・美の規範批判を描いた、現代的な意味を持つ傑作なんですね。
作品をもう一度観てみませんか?
『かぐや姫の物語』を以前観たことがある方も、この記事で紹介した視点を持って、もう一度作品を観てみると、新しい発見があるはずです。
眉を剃られるシーン、帝との場面、田舎で走り回るかぐや姫の表情、そして月へ帰る最後の場面。
それぞれの場面が、「美人であること」をめぐる深いメッセージを含んでいることに気づくでしょう。
また、この作品をまだ観たことがない方には、ぜひ一度鑑賞してみることをおすすめします。
美しい水彩画のような映像美とともに、かぐや姫が経験する喜びと悲しみ、自由への渇望が、心に深く残るはずです。
そして何より、この物語は私たち自身の生き方にも問いかけてくれます。
他者の期待に応えるために自分を矯正していないか、本当に自分らしく生きているか、自分の身体と人生の決定権を持てているか。
かぐや姫の物語は、千年前の古典でありながら、今を生きる私たちにとって、とても現代的で切実なメッセージを届けてくれる作品なんですね。
作品を通じて、美しさの意味や女性の自由について、改めて考えてみてはいかがでしょうか。