
高畑勲監督の映画『かぐや姫の物語』を見て、初潮や生理に関する描写が気になった方も多いのではないでしょうか。
この作品では、かぐや姫が初潮を迎えるシーンや、帝との接触で感じる「生理的嫌悪」が重要な役割を果たしています。
実は、これらの描写は単なる成長の過程を示すだけでなく、女性が性的対象として扱われることへの拒絶や、男性中心の社会構造への批判が込められているのです。
この記事では、映画の中で初潮や生理的嫌悪がどのように描かれ、それがかぐや姫の運命にどう影響したのかを詳しく解説します。
かぐや姫の物語における生理描写の結論

『かぐや姫の物語』では、初潮を迎えたことを示唆するシーンが明確に描かれており、それを境にかぐや姫が性的対象として扱われるようになります。
この初潮の場面は、媼が翁にひそひそと耳打ちし、翁が「なんとめでたい」と喜ぶシーンとして登場します。
この瞬間から、かぐや姫は「姫」として本格的に扱われ、求婚や夜伽といった性的な文脈が前面に出てくるのです。
さらに、帝に抱きしめられる場面では、生理的な嫌悪感が極限に達し、それがかぐや姫が「月に帰りたい」と心から願う決定的な契機となったとされています。
つまり、この作品における「生理」とは、女性の身体的成熟と、それに伴う社会からの性的支配という二重の意味を持っているのです。
なぜ初潮が重要なターニングポイントなのか

初潮を迎えるシーンの描かれ方
映画の中盤で、媼がひそひそと翁に何かを伝えるシーンがあります。
翁はその話を聞いて「なんとめでたい」と喜びますが、このシーンがかぐや姫の初潮を示していると批評家たちは一致して指摘しています。
この描写は直接的ではありませんが、日本の伝統的な価値観では、初潮は女性が子どもから大人になる重要な通過儀礼とされていました。
高畑監督は、あえて露骨にではなく、このような婉曲的な表現を選ぶことで、観客に想像の余地を残しつつ、重要なメッセージを伝えているのです。
初潮後に変化するかぐや姫の扱われ方
初潮を迎えた直後から、かぐや姫を取り巻く環境は劇的に変化します。
具体的には以下のような変化が見られます。
- 「姫」としての正式な扱いが始まる
- 貴族たちからの求婚が本格化する
- 翁が「夜伽の準備をせねば」と口にする
- 性的対象として周囲から見なされるようになる
特に「夜伽の準備」という言葉は衝撃的です。
これは、かぐや姫が性的な存在として意識され始めたことを明確に示しており、初潮=性的成熟という図式が社会的に機能していることを表しています。
月から来た「子ども」が地上の「女」になる瞬間
かぐや姫はもともと月から来た存在で、地上の人間とは異なる純粋な生命体として描かれています。
幼少期のかぐや姫は、竹林の中を裸足で走り回り、自然と一体となって生きる無垢な「子ども」でした。
しかし、初潮を境に、彼女は地上の社会システム、特に男性中心の権力構造と性的支配の文脈に組み込まれていくのです。
この変化は、血=初潮という身体的な変化が、社会的な位置づけの変化と直結していることを示しています。
帝への「生理的嫌悪」とその意味
帝の造形に込められた意図
映画を見た多くの人が印象に残るのが、帝(御門)の異様に長いアゴです。
このデザインは、観客に不快感や「キモさ」を与えるよう意図的に設計されたものと解釈されています。
批評家たちは、この長いアゴが、かぐや姫が感じる「生理的嫌悪」を視覚化する装置だと指摘しています。
つまり、観客もかぐや姫と同じように「この人物に抱かれたくない」という感覚を共有できるようにデザインされているのです。
抱きしめられた瞬間の拒絶反応
かぐや姫は、宮中での厳しい作法や暮らし、望まない求婚にはある程度耐えていました。
しかし、背後から帝に抱き寄せられた瞬間、彼女の中で何かが決定的に壊れます。
この場面では、かぐや姫の拒絶は理屈や言葉ではなく、身体そのものが「無理」と訴えるレベルの拒絶として描かれています。
これはまさに「生理的嫌悪」と呼ぶべきもので、理性では抑えられない本能的な拒否反応です。
この瞬間こそが、かぐや姫が「月に帰りたい」と心の底から願う決定的な契機になったとされています。
「触れられたくない」身体レベルの拒絶
帝との接触シーンは、単なる嫌悪感を超えた深い意味を持っています。
それは、女性の身体が男性権力によって所有される恐怖です。
初潮後、かぐや姫は以下のような圧迫を受けていました。
- 結婚の強要
- 出産への期待
- 性的対象としての視線
- 身体的自由の剥奪
帝の強引な求愛は、これらすべての圧迫の極致として描かれているのです。
かぐや姫の生理的嫌悪は、地上世界そのものへの拒絶へとつながっていきます。
具体的な場面とSNSでの反響
初潮シーンへの反応
初潮を示唆するシーンについて、多くの視聴者が「気づかなかった」という声を上げています。
SNSでは「あのひそひそ話のシーンが初潮を表していたなんて」「翁が喜んでいた意味がやっとわかった」といった声が見られます。
婉曲的な表現だからこそ、気づいた時の衝撃が大きく、作品の深さを再認識する視聴者が多いようです。
特に女性視聴者からは、「初潮を境に急に『女』として扱われる感覚がリアルだった」という共感の声も多く聞かれます。
帝の長いアゴに対する賛否
帝のキャラクターデザインについては、SNSでも賛否が分かれています。
「あの長いアゴは本当に気持ち悪くて、かぐや姫の気持ちがよくわかった」という肯定的な意見がある一方で、「容姿で悪を表現するのは差別的ではないか」という批判的な声もあります。
ある批評家は、「天皇制的権力への批判を意図しつつ、気持ち悪い顔=悪という図式になってしまっている点で、表現として問題がある」と指摘しています。
ファンの間では「権力者としての威圧感を表現するために、あえて誇張したのでは」という見方もあります。
「月に帰りたい」という願いへの共感
かぐや姫が地上を離れ、月に帰ることを決意する場面は、多くの視聴者の心を打ちました。
SNSでは「かぐや姫が月に帰りたいと思う気持ちが痛いほどわかる」「性的対象として見られることへの拒絶が切ない」という声が多数見られます。
特に、帝に抱きしめられた直後に「月に帰りたい」と願う流れは、身体的自由を奪われることへの絶望として強く印象に残るようです。
ある視聴者は「この世界にいたくないと思うほどの絶望を、高畑監督は見事に描いた」とツイートしています。
女の童との対比
帝の側にいる女の童(めのわらわ)は、無邪気に動き回る純粋な生命力の象徴として描かれています。
この少女はまだ初潮を迎えておらず、性的対象として見られていない存在です。
批評では、この女の童と、性的支配の対象となったかぐや姫との対比が意図的に配置されていると指摘されています。
「女の童の無邪気さと、かぐや姫の絶望的な表情の対比が印象的だった」という感想も多く見られます。
田舎での生活との対比
多くの視聴者が指摘するのが、田舎での自由な暮らしと、都での抑圧された生活の対比です。
田舎では、かぐや姫は裸足で走り、笑い、自然と一体になって生きていました。
しかし都に上がってからは、以下のような制約を受けます。
- 厳しい作法と礼儀の強要
- お歯黒や眉剃りなどの身体改造
- 動きを制限する重い衣装
- 外出の自由の制限
SNSでは「田舎での走るシーンが自由の象徴で、都での生活が牢獄のように見えた」という声が多く見られます。
初潮を境に、かぐや姫はこの「牢獄」の中でさらに性的対象として扱われるようになったのです。
「生」「性」「生理」のテーマ的連関
自然な生命力と制度化された性
『かぐや姫の物語』の根底には、自然な生命力と、男性中心社会における制度化された性との対立というテーマがあります。
かぐや姫が体現しているのは、自然そのものの生命力です。
竹から生まれ、驚異的な速度で成長し、自然と戯れる姿は、純粋な「生」の象徴でした。
しかし、初潮を迎えることで、その「生」は「性」として社会に認識され、管理と支配の対象となってしまうのです。
身体の自然と社会の制度の衝突
初潮は自然な身体の変化です。
しかし、それを「めでたい」と喜ぶ翁の反応には、社会的な期待が込められています。
それは「結婚できる」「子どもを産める」「家の繁栄につながる」といった、女性の身体を社会的機能として捉える視点です。
かぐや姫自身の意志や感情は、この社会システムの中では二の次にされてしまいます。
映画は、身体の自然な変化が、いかに社会の制度によって意味づけられ、支配されるかを鋭く描いているのです。
月への帰還が意味するもの
最終的にかぐや姫は月に帰ります。
この帰還は、地上の性的支配からの逃避であると同時に、純粋な生命としての本来の姿への回帰でもあります。
しかし、月に帰ることで、かぐや姫は地上で得た記憶と感情をすべて失ってしまいます。
この結末は、女性が性的支配から逃れるためには、自分自身の感情や記憶さえも捨てなければならないという悲劇を示しているとも解釈できます。
まとめ:かぐや姫の物語における生理描写の真意
『かぐや姫の物語』で描かれる初潮と生理的嫌悪は、単なる成長の一過程ではありません。
初潮を迎えたことで、かぐや姫は「女」として社会に認識され、性的対象化されていきます。
特に帝に抱きしめられた場面での生理的嫌悪は、女性の身体が男性権力によって所有されることへの本能的な拒絶として描かれています。
この拒絶が、かぐや姫が地上を離れ、月に帰ることを決意する決定的な契機となりました。
高畑勲監督は、初潮という身体的変化と、それに伴う社会的な性的支配を丁寧に描くことで、女性が直面する構造的な問題を浮き彫りにしているのです。
帝の長いアゴという視覚的表現には賛否がありますが、生理的嫌悪を観客と共有させる効果的な装置として機能しています。
この作品は、自然な生命力と、それを制度化し支配しようとする社会との対立を、「生」「性」「生理」という多層的なテーマで描いた傑作なのです。
今一度、作品を見直してみませんか
『かぐや姫の物語』は、一度見ただけでは気づかない深いメッセージが込められた作品です。
初潮のシーンや帝との接触場面を、今回解説した視点で見直してみると、新たな発見があるはずです。
かぐや姫が感じた圧迫感や絶望は、現代社会においても女性が直面している問題と深くつながっています。
高畑監督が丁寧に描いた一つ一つのシーンには、女性の身体と自由、そして尊厳についての深い洞察が込められているのです。
ぜひもう一度、この美しくも切ない物語に向き合ってみてください。
きっと、初めて見た時とは違う感動と気づきが得られるはずです。