
高畑勲監督の映画『かぐや姫の物語』を観て、ふと疑問に思ったことはありませんか?
なぜ、かぐや姫は月から地球へやってきたのでしょうか。
原作の『竹取物語』には「ある罪を犯したため」としか書かれておらず、その具体的な内容は千年以上もの間、謎のままでした。
しかし、高畑監督はこの映画で、その答えを大胆かつ感動的に描き出しています。
この記事では、「かぐや姫の物語 なぜ地球に」という疑問に対する答えを、映画の解釈や原典との違い、そして込められたテーマまで、詳しく解説していきますね。
かぐや姫が地球に来た理由【結論】

映画『かぐや姫の物語』では、かぐや姫が「地上の流転する生への憧れ」を抱いたことが罪とされ、その罰として地球へ流刑されたという解釈が示されています。
月の世界は老いも死もない「変化のない完璧な世界」ですが、かぐや姫はそこに背を向け、喜びや苦しみに満ちた地球の生を「美しい」と感じてしまいました。
この「望んではならないものを望んだこと」こそが、月の掟に反する罪だったのです。
つまり、地球への追放は「罰」であると同時に、彼女自身が望んだ世界でもあったという、複雑で切ない構図になっています。
なぜそのような解釈になったのか

原典『竹取物語』では語られなかった「罪」の内容
まず、大前提として押さえておきたいのは、原典の『竹取物語』における設定です。
物語の終盤、月からの使者がやってきて「かぐや姫は月の都の人で、ある罪を犯したため、この世に送られた」と語ります。
しかし、その罪の具体的な内容は一切明かされていません。
この「語られない余白」が、千年以上にわたって人々の想像力をかき立て、様々な解釈を生んできました。
高畑監督が与えた明確な答え
高畑勲監督は、この原典の謎を物語の核心に据えました。
映画のキャッチコピーには「姫の犯した罪と罰」と明記され、作品全体がこの謎解きになっています。
監督が提示した答えは、月の「穢れなき・変化のない世界」に背を向け、地上の生や感情を「望んでしまった」こと自体が罪というものでした。
月の世界は、老いも死もなく、苦しみもない理想郷として描かれますが、それは同時に「流転しない・静止した世界」でもあります。
一方、地球は鳥や虫、けもの、草木花、そして人間が生まれ、育ち、老い、死ぬ「流転する世界」です。
かぐや姫は、この豊かで激しい生の在り方を美しいと感じてしまったのです。
「罪」と「罰」の二重構造
この映画における「罪と罰」は、非常に深い意味を持っています。
罪とは、地上への強い憧れ、流転する生への共感です。
罰とは、地球への流刑と、その後の月への強制送還、そして記憶の喪失です。
つまり、かぐや姫は望んだ世界に送られながらも、最終的にはその記憶さえ奪われてしまうという、残酷な運命を辿ることになります。
地球で体験した喜び、愛、怒り、絶望といった人間的な感情の全てが、月の世界の視点からは「穢れ」とされてしまうのです。
月の掟と地球の生命観の対比
映画は、月と地球という二つの世界の価値観を鮮明に対比させています。
月の世界は、以下のような特徴を持っています。
- 永遠不変で、老いも死もない
- 苦しみや悲しみがない
- 感情の起伏がなく、静寂に満ちている
- 穢れのない、完璧な世界
一方、地球の世界は、次のように描かれます。
- 生命が生まれ、成長し、やがて死を迎える
- 喜びと苦しみが共存している
- 感情が豊かに揺れ動く
- 不完全だが、だからこそ美しく尊い
かぐや姫は、完璧だが無機質な月の世界よりも、不完全だが生命力に溢れる地球の世界に惹かれたのです。
映画で描かれる地球での体験
山里での自由で豊かな幼少期
かぐや姫が地球で最初に過ごしたのは、山里での貧しくも自由な日々でした。
竹取の翁に発見され、「たけのこ」と呼ばれながら、自然の中で伸び伸びと育ちます。
彼女は山を駆け回り、友達と遊び、季節の移ろいを肌で感じました。
この時期こそが、かぐや姫が本当に望んでいた「地球の生」そのものだったのです。
都での束縛と婚姻圧力
しかし、竹から出てきた黄金によって裕福になった翁は、かぐや姫を都へ連れて行き、高貴な姫として育てようとします。
都での生活は、かぐや姫にとって窮屈で息苦しいものでした。
- 眉を剃り、お歯黒をつけ、十二単を着せられる
- 行儀作法を厳しく教え込まれる
- 自由に外を歩くことさえ許されない
- 多くの貴族から求婚され、結婚を強要される
これらは当時の身分制度や結婚制度の象徴であり、人間社会の「穢れ」の側面とも言えます。
かぐや姫が憧れた地球の生は、こうした束縛や苦しみも含んでいたのです。
喜びと絶望、全ての感情を体験する
地球での日々の中で、かぐや姫は人間として様々な感情を体験します。
山里での友情、都での孤独、求婚者たちへの怒り、捨丸との再会と別れ、帝からの求愛への絶望。
これら全てが、月の世界では決して味わえない「生きている」という実感でした。
しかし同時に、その感情の激しさゆえに、かぐや姫は月を恋しく思い、無意識に月へ助けを求めてしまいます。
この矛盾こそが、地球の生の本質を表していると言えるでしょう。
テーマとして込められた深い意味
「生きる」ことの尊さと皮肉
映画『かぐや姫の物語』は、「生きる」ということの尊さを、極めて皮肉な形で描いています。
かぐや姫は、月の者から見れば「穢れに触れる罰」を受けている存在です。
しかし観客の目には、彼女が体験する喜びや悲しみこそが「生きることそのものの尊さ」として映ります。
生きる喜びを知ってしまったこと、それを望んだことが罰されるという構図は、非常に痛烈で、観る者の心を強く揺さぶります。
記憶の喪失という残酷な結末
物語の終盤、月からの使者によって、かぐや姫は月へ連れ戻されます。
そして、天の羽衣を着せられることで、地球での記憶を全て失ってしまうのです。
彼女が地球で愛した人々、体験した喜びや苦しみ、全てが無かったことになってしまいます。
これは、生きた証が完全に消されてしまうという、ある意味で死よりも残酷な結末とも言えます。
かぐや姫は生きながらにして、自分自身の人生を失うのです。
女性の主体性と社会規範
映画は、女性の主体性と社会規範の衝突というテーマも描いています。
かぐや姫は自分の意志で生き方を選びたいと願いますが、翁や周囲の大人たちは彼女を「高貴な姫」という枠に押し込めようとします。
求婚者たちは彼女の心を理解しようとせず、ただ「手に入れたい宝」として扱います。
これらは平安時代の物語でありながら、現代にも通じる普遍的な問題提起となっています。
視聴者やファンの反応
「生きることへの賛歌」としての受け止め
多くの視聴者が、この映画を「生きることへの賛歌」として受け止めています。
SNSでは「かぐや姫が地球に来た理由を知って、改めて日常の尊さを感じた」という声が多く見られます。
不完全で苦しみも多い人生だからこそ、そこに美しさや価値があるというメッセージは、多くの人の心に響いているようです。
「完璧じゃないけど、それでも生きていることが素晴らしい」という肯定感を与えてくれる作品として、高く評価されています。
「記憶を失う結末」への切なさ
一方で、かぐや姫が記憶を失って月へ帰るという結末については、多くのファンが深い悲しみを感じています。
「あれだけ豊かな感情を体験したのに、全て忘れさせられるなんて残酷すぎる」という意見や、「記憶を失った後のかぐや姫は、本当にかぐや姫なのだろうか」という哲学的な問いかけも見られます。
この切なさこそが、高畑監督が意図した「罪と罰」の本質なのかもしれませんね。
「もう一度人生をやり直したい」という共感
映画の解釈の一つとして、「かぐや姫の地球での日々は、もう一度人生をやり直したいという願いの実現だった」という見方もあります。
一部の論考では、かぐや姫は天女の血筋を持つ存在であり、もともと地上に由来があったため、必然的に地上を恋い慕ったとも解釈されています。
この視点から見ると、地球への追放は単なる罰ではなく、「もう一度生きたい」という魂の叫びを叶えるものでもあったのです。
多くの人が「もし人生をやり直せるなら」と考えることがありますが、かぐや姫はそれを実現しながらも、結局は全てを失ってしまうという悲劇性が、深い共感を呼んでいます。
原典との比較と他の解釈
『竹取物語』が残した余白
原典『竹取物語』は、日本最古の物語文学とされ、平安時代初期に成立したと考えられています。
物語の中で「罪」という言葉は登場しますが、その内容は一切説明されていません。
この「語られない部分」が、後世の作家や映画監督に解釈の自由を与え、様々な作品が生まれるきっかけとなりました。
高畑監督の解釈は、その中でも特に哲学的で感情的な深みを持つものと言えるでしょう。
他の映像作品での解釈
『かぐや姫の物語』以外にも、竹取物語を題材にした映像作品は数多く存在します。
それぞれの作品で「なぜ地球に来たのか」という問いへの答えは異なります。
- 単純に「罪を犯したため追放された」という原典通りの描写
- 月の世界での権力闘争や陰謀に巻き込まれた結果
- 地球の誰かに会うための意図的な降臨
しかし、高畑版のように「地球への憧れ自体が罪」という解釈は、極めて独創的で、作品のテーマ性を大きく高めています。
文学研究における様々な解釈
学術的な文学研究の場でも、かぐや姫の「罪」については様々な説が提唱されてきました。
- 月の世界での身分違いの恋
- 月の掟を破る何らかの行為
- 仏教的な「業」の概念との結びつき
- 地上の人間との関わりを持ったこと
これらの解釈は、時代や研究者の視点によって変化してきましたが、高畑監督の解釈は、現代の観客に最も響く形で提示されたと言えるでしょう。
まとめ
「かぐや姫の物語 なぜ地球に」という疑問に対する答えは、月の完璧で不変な世界に背を向け、地上の流転する生への憧れを抱いたことが罪とされ、その罰として地球へ流刑されたというものです。
原典『竹取物語』では明かされなかった「罪」の内容を、高畑勲監督は「生きることへの欲望」として解釈しました。
かぐや姫は地球で、貧しくも自由な山里の暮らし、束縛に満ちた都での生活、そして深い愛や絶望といった人間的な感情を体験します。
しかし最終的には月へ連れ戻され、全ての記憶を失ってしまうという、切なくも残酷な運命を辿ります。
この映画は、生きる喜びを知ってしまったこと、それを望んだことが罰されるという皮肉な構図を通じて、「生きることそのものの尊さ」を私たちに問いかけているのです。
完璧ではないからこそ、苦しみがあるからこそ、私たちの人生は美しく、価値があるのだということを教えてくれます。
今日から見つめ直してみませんか
『かぐや姫の物語』が教えてくれるのは、日常の中にこそ本当の宝があるということです。
季節の移り変わり、大切な人との会話、ふとした瞬間の感動。
これらは当たり前のように感じられるかもしれませんが、かぐや姫が命がけで望んだ「地球の生」そのものなのです。
もし今、日々の生活に疲れを感じているなら、この映画をもう一度観てみてください。
そして、自分が今ここに生きていること、感情を持っていること、誰かを愛せることの素晴らしさを、改めて感じてみてくださいね。
不完全で、時に苦しいこの人生こそが、実は最も美しい贈り物なのかもしれません。