
高畑勲監督の『かぐや姫の物語』を観て、作品に登場する食べ物や自然の描写に心を動かされた方も多いのではないでしょうか。
特に山里での暮らしの中で、かぐや姫が自然と触れ合いながら成長していく姿は印象的ですよね。
この作品に果物はどのように描かれているのか、そしてなぜ「自然の実り」がこれほど重要なモチーフとして扱われているのか、気になっている方もいらっしゃるでしょう。
この記事では、『かぐや姫の物語』における果物や農作物の描かれ方、そして作品に込められた「食」と「生命」のテーマについて、詳しく解説していきます。
『かぐや姫の物語』における果物の扱い

結論から言うと、『かぐや姫の物語』では特定の果物が象徴的に前面に出る場面は多くありません。
しかし、作品全体を通じて「自然の実り」「農作物」という広い概念の中で、果物を含む食べ物が重要な意味を持っています。
映画の中では、かぐや姫が山里で育つ過程で、田畑や自然の中での営みが丁寧に描かれており、人々が作物を育て、収穫し、食べるという生きる喜びが表現されているのです。
桃太郎の桃のように、特定の果物が物語の鍵を握るという構造ではなく、より包括的な「自然からの恵み」として食物全般が扱われています。
なぜ果物単体ではなく「自然の実り」全体が描かれるのか

高畑勲監督の作品テーマ
高畑勲監督は『かぐや姫の物語』において、原典『竹取物語』以上に「自然と農の営み」を丁寧に描いています。
これは監督が一貫して追求してきた「生きること」の本質を表現するためなのです。
かぐや姫は地球に憧れ、人間として生きることを望みました。
その理由として、鳥や獣、草・木・花と触れ合い、自然界の循環や実りに参加することへの憧れが描かれています。
「食べる」ことの意味
作品の中で、かぐや姫は山里での暮らしの中で、時には他人の作物を盗んだり、動物の命を奪いながら生きていました。
これは人間の生=食べること=他の命を奪うことという側面を表現しています。
果物だけでなく、穀物・野菜・魚など、あらゆる食物が「命のやりとり」の象徴として描かれているのです。
月の世界には「穢れ」がありませんが、それは同時に「生きている実感」もないことを意味しています。
対照的に地上では、不完全で汚れていても、飢えや盗みや殺生を含みつつ続く生があり、それこそがかぐや姫が求めたものだったのですね。
原典『竹取物語』における自然観
原典『竹取物語』は、日本の自然観・対自然意識を考察する素材として、学術的にも頻繁に論じられています。
竹・山里・田畑といった環境の中で、人間は自然から恵み(食物)を得て生きる存在として描かれています。
かぐや姫はその世界に一時的に身を置く超越的存在として解釈されるのです。
原典本文中では、婚礼の場面などで酒や料理は登場しますが、特定の果物に象徴的意味が付与されるという描写は見られません。
作品の中で描かれる「実り」の具体的なシーン
山里での暮らしと農作業
映画の前半では、かぐや姫が山里で子どもたちと駆け回り、自然の中で育つ姿が印象的に描かれています。
田植えや収穫といった農作業の場面が丁寧に描写され、作物を育てることの喜びと苦労が表現されています。
これらのシーンでは、米や野菜など、日々の糧となる農作物が中心となっており、果物はその一部として自然に組み込まれています。
都での暮らしとの対比
かぐや姫が都に移ってからは、豪華な食事や宴会の場面が登場します。
しかし、これらの場面でかぐや姫が感じるのは、山里での素朴な暮らしへの郷愁です。
都での「整えられた食」よりも、山里での「命を直接感じられる食」の方が、かぐや姫にとって価値があったことが描かれているのですね。
月からの使者が来る場面
物語のクライマックスで月からの使者が訪れる場面では、月の世界には「食べる」ことさえ必要ない清浄な世界であることが示唆されています。
これは、地上での「食べること」「生きること」の尊さを逆説的に強調する演出となっています。
SNSや視聴者の反応から見る「食」と「自然」への共感
自然描写への賞賛
SNSでは、『かぐや姫の物語』の自然描写の美しさを称賛する声が多く見られます。
「山里での暮らしの場面が心に残る」「自然の中で生きることの豊かさを感じた」といった感想が寄せられています。
特に、作物を育て収穫する場面については、「生きることの本質を描いている」という評価が多いですね。
かぐや姫の選択への理解
ファンの間では、かぐや姫がなぜ地球に憧れたのか、そして最終的に月に帰らなければならなかった悲しみについて、様々な考察がなされています。
「地球での不完全な生活こそが本当の生きることだった」「食べること、汚れることも含めて生きたかった」という解釈が広く共有されています。
これらの反応からも、作品が描く「食」と「自然」のテーマが、多くの人々の心に深く響いていることがわかります。
高畑監督の演出への評価
高畑勲監督の演出について、「細部まで丁寧に描かれた農作業や自然の営みが、物語のテーマを雄弁に語っている」という声もあります。
特定の果物を象徴として使うのではなく、自然全体の営みの中に「食」を位置づけたことが、作品の深みを生んでいるという評価ですね。
研究や分析におけるアプローチ
映像分析の可能性
『かぐや姫の物語』をより深く理解したい場合、映画本編をフレーム単位で確認するアプローチが有効です。
具体的には、以下のような点に注目できます。
- どの場面にどの食物(米、野菜、魚、果物など)が出るか
- 誰がそれをどのように扱うか(栽培・調理・贈与・祝宴など)
- それぞれの食物がどのような文脈で登場するか
このような一次データを自分でカウントすることで、作品における「食」の扱い方がより明確に見えてきます。
既存研究からのアプローチ
既存の批評や論文では、「自然・生命・食・農業」をキーワードにした高畑勲作品論や『竹取物語』論が参考になります。
これらの研究では、果物を「自然の実り」の一部として位置づけて論じることが一般的です。
特定の果物だけに焦点を当てるのではなく、作品全体のテーマとの関連で考察することが重要なのですね。
原典との比較
『竹取物語』の本文を電子テキストで検索し、特定の果物名(梅・桃・柿など)が登場するかを確認することもできます。
その有無を前提に映画版との比較を行うことで、高畑監督がどのような解釈を加えたのかが明らかになります。
まとめ:『かぐや姫の物語』における果物と自然の実り
『かぐや姫の物語』では、特定の果物が象徴的に強調されるのではなく、「自然の実り」全体が重要なモチーフとして扱われています。
高畑勲監督は、果物を含む農作物全般を通じて、「食べること=生きること=他の命を奪うこと」という人間の本質を描いたのです。
かぐや姫が地球に憧れた理由は、この不完全で汚れた、しかし生命に満ちた世界で、自然の循環と実りに参加したかったからでした。
月の清浄な世界には「食」も「穢れ」もありませんが、それは同時に「生きている実感」もない世界なのですね。
作品を通じて、私たちは日々食べること、自然から恵みを受け取ることの尊さを改めて感じることができます。
果物という個別の要素ではなく、自然全体との関わりの中で「生きること」を描いた本作は、多くの視聴者の心に深く響き続けているのです。
作品をもう一度観てみませんか
『かぐや姫の物語』の「食」と「自然」のテーマについて理解を深めたあなたには、ぜひもう一度作品を観ていただきたいです。
今度は、山里での農作業のシーン、食事の場面、自然の中で遊ぶ子どもたちの姿に、より深い意味を感じられるはずです。
特定の果物を探すのではなく、作品全体に流れる「生命の循環」「自然からの恵み」というテーマを感じながら観てみてください。
きっと、初めて観たときとは違った感動が得られますよ。
かぐや姫が本当に求めていたもの、そして私たちが日々当たり前に享受している「食べる喜び」「生きる実感」の価値に、改めて気づくことができるでしょう。