
スタジオジブリの名作『かぐや姫の物語』を観た方の中には、帝(みかど)がかぐや姫を抱きしめるシーンが強く印象に残った方も多いのではないでしょうか。
この「バックハグ」と呼ばれる場面は、美しい映像の裏に深い問題性を抱えており、SNSや評論の場で活発な議論を呼んでいます。
ロマンチックな演出に見えて、実は女性の自己決定権や権力構造といった重いテーマを含んだこのシーンは、作品全体の「罪と罰」という主題とも密接に結びついているんですね。
この記事では、かぐや姫の物語におけるバックハグシーンの内容と意味、なぜこのシーンが問題視されるのか、そして作品テーマとの関連性について詳しく解説していきます。
かぐや姫の物語のバックハグとは帝の強引な抱擁シーン

『かぐや姫の物語』のバックハグとは、帝(みかど)がかぐや姫の意思に反して後ろから抱きしめる場面を指します。
このシーンは、単なる恋愛演出ではなく、女性の同意を無視した身体接触として作品内でも象徴性・問題性が非常に高い場面として位置づけられています。
帝はかぐや姫に強く惹かれ、求婚を繰り返す中で、姫の明確な拒絶にもかかわらず強引に抱きしめます。
その際、帝は「自分と結婚することが一番の幸せだ」と説くのですが、かぐや姫の表情には明らかな嫌悪と拒絶が浮かんでいるのです。
なぜバックハグシーンが問題視されるのか

女性の同意を無視した身体接触だから
このシーンが問題視される最大の理由は、かぐや姫が明確に拒否しているにもかかわらず、帝が一方的に身体接触を行っている点にあります。
かぐや姫は作品を通じて一貫して「望まない結婚」「望まない接触」を拒み続ける存在として描かれています。
原典の『竹取物語』でも、かぐや姫は「なんでふ、さることかしはべらん(どうしてそんなことをしなければならないのでしょう)」と結婚を明確に拒んでいました。
ジブリ版でもこの姿勢は貫かれており、帝による抱擁は彼女の自己決定権の侵害として強調されているんですね。
権力者による一方的な「幸せ」の押し付けを象徴しているから
帝は国の最高権力者です。
その立場を背景に、「私がこうすることで喜ばぬ女はいなかった」という態度で、かぐや姫に接近します。
これは「女性にとっての幸せとはこういうものだ」と、他者(特に男性・権力者)が勝手に規定し押し付ける構造を表しています。
帝は自分の行為が相手を幸せにすると信じて疑わないのですが、かぐや姫にとってはそれが苦痛でしかないという対比が、このシーンの本質なんですよね。
かぐや姫に課された「罪と罰」の象徴だから
映画では、かぐや姫は月の住人でありながら地上の世界を望んだことが「罪」とされ、その結果、穢れた地上に落とされて生きねばならないことが「罰」として描かれます。
ある解釈では、かぐや姫には月から「男を惹きつける力」という呪いのようなものが与えられており、それによって望まない注目と苦しみを受け続けること自体が罰だとされています。
その文脈で見ると、帝による強引な抱擁は、この「呪われた魅了」と「女性の身体を自分のものとみなす権力」の最終形として位置づけられるのです。
このシーンがきっかけとなり、かぐや姫はついに「月に帰りたい」と強く願うようになります。
フェミニズム的文脈で批判の対象となっているから
このシーンは、フェミニズム的な読みの中でしばしば取り上げられます。
女性の同意を無視した身体接触、支配の象徴として、現代的な視点から問題視されているんですね。
かぐや姫が生涯一貫して「望まない結婚」「望まない接触」を拒み続ける姿勢は、当時としても現代としても女性の自己決定権の強い表明と見なされています。
求婚者や帝による接近は、彼女の自己決定権の侵害として解釈され、作品全体が女性に対する社会的抑圧への批判を含んでいるという見方もあるのです。
バックハグシーンに対する様々な反応
ロマンチックな演出として受け取る層の存在
ネット上では、このシーンを「ロマンチックなバックハグ」として消費する層も一定数存在します。
高貴な帝が美しいかぐや姫を抱きしめる映像は、確かに視覚的には美しく、古典的な恋愛場面のように見えなくもありません。
ジブリ映画の繊細な作画と音楽が相まって、表面的には感動的なシーンとして受け取られることもあるんですね。
しかし、この受け取り方には、かぐや姫の明確な拒絶のサインを見落としているという問題があります。
性加害・強制的接触として批判的に見る層の声
一方で、かぐや姫の嫌悪・拒否の表情を重視し、このシーンを「ほぼ性加害」「強制的接触」として批判的に見る層も多く存在します。
SNSでは以下のような意見が見られます。
- 「帝のバックハグシーンは完全に同意のない身体接触で、現代なら完全にアウト」
- 「かぐや姫の表情を見れば拒絶しているのは明らか。これをロマンチックと言うのは危険」
- 「権力者が『お前の幸せは俺が知っている』と押し付ける典型的な構図」
こうした批判的な視点は、作品が意図的にこの問題性を描いていると理解した上での反応です。
高畑勲監督は、このシーンを通じて女性が置かれた立場の苦しさを表現しようとしたと考えられています。
「私がこうすることで喜ばぬ女はいなかった」というミーム化
帝の態度を皮肉るように、「私がこうすることで喜ばぬ女はいなかった」というフレーズがミーム的に語られることもあります。
これは、権力を背景にした一方的な「優しさ/愛情」の危うさをネタ化しつつ問題視する文脈で使われています。
「俺様系男子」や「自分の行為が絶対に喜ばれると信じて疑わない男性」への皮肉として、このフレーズが引用されることも多いんですね。
ユーモアを交えながらも、本質的な問題点を指摘する形での言及と言えるでしょう。
バックハグシーンと作品全体のテーマとの関連
「罪と罰」というテーマとの結びつき
『かぐや姫の物語』の中心テーマは「罪と罰」です。
かぐや姫は月の住人でありながら、地上の世界に憧れを抱いたことが「罪」とされました。
その罰として、彼女は穢れある地上に落とされ、人間として生きることを強いられます。
しかし、地上での生活は美しくも苦しいものでした。
特に、彼女に課せられた「男を惹きつける力」は、望まない注目と求婚をもたらし、彼女の自由を奪い続けます。
帝によるバックハグは、この「罰」の極致とも言えるシーンなのです。
浄土信仰と「生きること」の問い直し
映画は「浄土信仰」「死と輪廻」「極楽浄土」を背景に、「生きること」そのものを問い直す作品とされています。
月の世界は穢れがなく、感情もない清浄な場所として描かれます。
一方、地上は苦しみと喜びが混在する、生命力に満ちた世界です。
かぐや姫は地上世界を自ら望んで落ちてきた存在であり、その世界で暴力的・抑圧的な愛や接触に晒されることも、「人の世そのものが罰」であるという読みにつながります。
それでも彼女が最後まで地上での経験を愛おしく思う描写があることが、作品の深さを生んでいるんですね。
女性の身体と自己決定権という現代的テーマ
原作『竹取物語』は平安時代の作品ですが、ジブリ版『かぐや姫の物語』は現代的な視点を加えて再構築されています。
特に、女性の身体と自己決定権というテーマは、現代の観客に強く訴えかけるものがあります。
かぐや姫は、求婚者たちに「難題」を出して結婚を回避しようとしますが、これは単なる高慢さではなく、自分の人生を自分で決める権利を守ろうとする姿勢なのです。
帝のバックハグシーンは、そうした彼女の抵抗が権力によって踏みにじられる瞬間を象徴しており、観る者に深い印象を残します。
まとめ:バックハグシーンは作品の核心を突く重要な場面
『かぐや姫の物語』における帝のバックハグシーンは、表面的には美しい映像でありながら、その実、女性の同意を無視した身体接触と権力による支配を象徴する重要な場面です。
このシーンが問題視される理由は以下の通りです。
- かぐや姫の明確な拒絶にもかかわらず、帝が一方的に身体接触を行っている
- 権力者が「これがお前の幸せだ」と一方的に規定し押し付ける構造を表している
- かぐや姫に課された「罪と罰」の象徴であり、彼女が月に帰りたいと願う引き金となっている
- 女性の自己決定権という現代的なテーマとも深く結びついている
観客の反応も、ロマンチックな演出として受け取る層と、性加害・強制的接触として批判的に見る層に分かれています。
しかし、作品が意図的にこの問題性を描いていることを理解すれば、このシーンは作品全体の「罪と罰」「生きることの苦しさと美しさ」というテーマの核心を突く場面だと言えるでしょう。
この作品から学べること
『かぐや姫の物語』のバックハグシーンは、私たちに多くのことを問いかけています。
「相手のためを思って」という言葉が、実は相手の意思を無視した押し付けになっていないか。
権力や立場を背景に、相手の同意を軽んじていないか。
こうした問いは、恋愛関係だけでなく、職場や家庭、あらゆる人間関係に当てはまるものですよね。
もう一度この作品を観る機会があれば、かぐや姫の表情や態度に注目してみてください。
彼女が何を感じ、何を拒み、何を求めているのか。
その視点を持つことで、作品の深さがより一層感じられるはずです。
そして、私たち自身の日常においても、相手の意思を尊重する大切さを改めて考えるきっかけになるのではないでしょうか。