
スタジオジブリの名作『かぐや姫の物語』を観て、「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーに心を動かされた方は多いのではないでしょうか。
実はこの映画、脚本段階ではプロローグが存在していたのをご存知ですか?
かぐや姫がなぜ地球に来たのか、月で何をしたのか、そして彼女に課せられた罰とは何だったのか。
本編では描かれなかったこの重要なシーンについて、多くの方が気になっているようですね。
高畑勲監督はなぜこのプロローグを削除したのか、そしてその決断が作品にどんな影響を与えたのか。
この記事では、『かぐや姫の物語』のプロローグに隠された物語の核心と、作品全体に込められた深いメッセージについて詳しく解説していきます。
『かぐや姫の物語』のプロローグとは

『かぐや姫の物語』のプロローグとは、脚本段階で存在していたものの、高畑勲監督の判断で本編からは削除されたシーンです。
このプロローグでは、かぐや姫が月で犯した罪と、地球への罰として送られる経緯が描かれていました。
2013年に公開されたこの映画は、制作費52億円、作画枚数24万枚というジブリ史上最大規模の作品でしたが、最終的にプロローグは本編には含まれず、終盤のセリフで過去を想像させる形となりました。
このプロローグの内容を知ることで、作品全体のテーマがより深く理解できるんですね。
プロローグで描かれていた内容

月でのかぐや姫の罪
プロローグの核心は、かぐや姫が月の世界で犯した「罪」にあります。
月は感情の起伏がない、完全で平坦な世界として描かれていました。
そこに住む人々は、苦しみも悲しみもない代わりに、喜びや感動もない生活を送っています。
かぐや姫の罪とは、地球で生きることへの憧れを抱いてしまったことでした。
月の世界では、地球の「起伏」に満ちた生活——喜び、苦しみ、悲しみ、楽しみといった感情の波——を求めることがタブーとされていたのです。
彼女は完璧な月の世界に、不完全な地球への憧憬という「乱れ」を持ち込んでしまいました。
これが月の掟を破る重大な罪とされたんですね。
地球への罰の内容
罪を犯したかぐや姫に課せられた罰は、皮肉にも彼女が憧れた地球での生活でした。
ただし、その罰にはいくつかの厳しい条件が付けられていました。
- 地球人として暮らさなければならない
- 月での記憶は完全に消される
- 金銀財宝の仕送りを受ける(これが翁に竹の中の宝物として現れる)
- 一度でも「月に帰りたい」と願えば、強制的に月へ連れ戻される
さらに重要なのが、男を惹きつける力(一種の呪い)が付与されたことです。
この力によって、かぐや姫は望まない注目を浴び、求婚者たちからの圧力に苦しむことになります。
憧れていた地球での生活が、実は彼女にとって最大の苦しみになるという構造になっていたんですね。
翁との出会いと物語の始まり
このプロローグの設定によって、竹から生まれたかぐや姫と翁の出会いが説明されます。
月から送られてきた赤ん坊のかぐや姫を、竹取の翁が偶然発見するという形です。
翁に届けられる金銀財宝も、月からの「仕送り」という設定でした。
これにより、原作『竹取物語』の不思議な要素に、一つの解釈が与えられていたのです。
高畑勲監督がプロローグを削除した理由
観客の想像力を信じる選択
高畑勲監督は最終的に、このプロローグを本編から削除するという大胆な決断をしました。
その理由は、プロローグで全てを説明してしまうと、観客の想像の余地が失われてしまうと考えたからです。
映画の終盤、かぐや姫が月の使者たちと対峙するシーンで、彼女の過去が断片的なセリフで語られます。
観客は自らその背景を想像し、物語の深層に思いを馳せることができるんですね。
これは高畑監督の作家性とも言える、観客を信じる姿勢の表れでした。
「生きること」そのものを描くため
プロローグを削除することで、作品の焦点は「罪と罰の説明」から「生きることの素晴らしさ」へと移りました。
かぐや姫が地球で体験する四季の美しさ、友との遊び、恋心、そして悲しみや怒り。
これらの感情の起伏こそが、この作品が本当に描きたかったテーマです。
月の完璧な世界と対比することで、地球の不完全さこそが生きる価値を生み出すというメッセージが浮かび上がります。
プロローグがあると、どうしても「罪と罰」という枠組みに縛られてしまうと監督は考えたのでしょう。
映画的な語り口の追求
高畑監督は常に「映画でしかできない表現」を追求していました。
説明的なプロローグではなく、映像と音楽、そして演技で物語を語ることを選んだのです。
かぐや姫が月に帰るシーンの圧倒的な美しさと悲しさは、プロローグでの説明よりもはるかに雄弁に彼女の心情を伝えています。
観客は理屈ではなく、感情で物語を受け止めることができるんですね。
プロローグから読み解く作品のテーマ
「姫の犯した罪と罰」の本当の意味
映画のキャッチコピー「姫の犯した罪と罰」は、多くの観客に強烈な印象を与えました。
プロローグの設定を知ると、この言葉の意味が明確になります。
罪とは「生きたいと願ったこと」であり、罰とは「実際に生きること」だったのです。
これは一見矛盾しているように見えますが、深い哲学的なメッセージが込められています。
生きることは美しいだけでなく、苦しみや悲しみも伴います。
かぐや姫は憧れた地球での生活で、確かに喜びを得ましたが、同時に深い苦しみも味わいました。
それでも彼女は最後まで地球での生活を愛していたんですね。
完璧な月と不完全な地球
この作品の根底には、完璧さと不完全さの対比というテーマがあります。
月の世界は完璧で、何の苦しみもありません。
しかし同時に、そこには喜びも感動も存在しないのです。
一方、地球は穢れがあり、不完全で、苦しみに満ちています。
でもだからこそ、そこには美しい四季があり、笑い合える友がいて、心が震える瞬間があります。
かぐや姫が地球の「彩り」を愛したように、不完全さこそが生の豊かさを生み出すというメッセージが込められています。
生きることへの肯定
プロローグの設定を踏まえると、この作品は「生きること」そのものへの深い肯定を描いていることが分かります。
かぐや姫に課せられた罰は、彼女が憧れたものでした。
つまり、罰であると同時に祝福でもあったのです。
苦しみを伴う人生であっても、それは価値があり、美しく、愛すべきものだと作品は語りかけています。
月に連れ戻される直前、かぐや姫が地球での記憶を失いそうになりながらも必死に思い出そうとするシーンは、この作品の核心を象徴していますね。
ファンや評論家の反応と解釈
プロローグ削除を支持する声
映画公開後、プロローグが削除されたことについて、多くの映画ファンや評論家から肯定的な意見が寄せられました。
「プロローグがないことで、かぐや姫の行動一つ一つに深みが増した」という声があります。
観客は彼女の笑顔や涙の裏に何があるのかを考え、自分なりの解釈を見つけることができるんですね。
映画を観た後も余韻が続き、何度も考えさせられるという感想も多く見られました。
これは高畑監督が意図した通りの反応だったと言えるでしょう。
罪と罰の解釈をめぐる議論
プロローグの内容が明らかになると、「姫の犯した罪と罰」について様々な解釈が生まれました。
ある評論家は、「男を惹きつける力こそが最大の罰だった」と指摘しています。
かぐや姫は自由に生きたかったのに、その力のせいで五人の求婚者や帝からの求愛に苦しめられました。
彼女が望んだのは素朴な生活だったのに、貴族社会の檻に閉じ込められてしまったのです。
また別の視点として、「生きること自体が罰であり祝福である」という二重性を指摘する声もあります。
この矛盾した構造こそが、人生の本質を表しているという解釈ですね。
原作『竹取物語』との比較
平安時代の原作『竹取物語』にも「前世の因縁」という概念が登場します。
高畑監督はこの古典的なモチーフを現代的に再解釈したと評価されています。
原作では曖昧だったかぐや姫の背景に、明確な動機と物語性を与えたのです。
ただし、それを映像として見せるのではなく、観客の想像に委ねるという手法を取りました。
古典の持つ余白を活かしながら、現代の観客にも響くテーマを打ち出した手腕が高く評価されていますね。
制作背景から見るプロローグの意義
8年の歳月をかけた制作過程
『かぐや姫の物語』は企画から完成まで約8年の歳月を要しました。
その長い制作期間の中で、プロローグをどう扱うかは重要な議論の的だったとされています。
脚本の段階では存在していたプロローグが、絵コンテの段階で削除され、最終的には本編に含まれませんでした。
この決断に至るまで、スタッフ間で何度も議論が重ねられたと言われています。
完成した作品を見ると、その決断が正しかったことが分かりますね。
作画枚数24万枚の意味
この作品の作画枚数は24万枚という、ジブリ史上最多の数字です。
水彩画のような独特のタッチで、一枚一枚丁寧に描かれました。
プロローグを削除したことで、その膨大な作画リソースを本編の表現力向上に注ぐことができました。
かぐや姫が野山を駆ける「疾走シーン」や、月の使者たちが降りてくる幻想的なシーンの圧倒的な映像美は、この選択の成果と言えるでしょう。
高畑勲監督の遺作としての意義
2018年に高畑勲監督が亡くなったことで、『かぐや姫の物語』は事実上の遺作となりました。
監督が最後に観客に問いかけたかったのは、「あなたはどう生きるか」というテーマだったのでしょう。
プロローグを削除することで、作品はより普遍的なメッセージを持つようになりました。
かぐや姫の物語を通して、私たち自身の生き方を見つめ直すことができるんですね。
これは監督からの最後の贈り物とも言える作品になりました。
プロローグを知ることで深まる作品理解
再鑑賞で気づく細部の伏線
プロローグの内容を知った上で作品を再鑑賞すると、様々な伏線や暗示に気づくことができます。
かぐや姫が初めて野山を駆けるシーンは、月の世界では味わえなかった自由への喜びを表現しています。
彼女が貴族の生活を拒絶し、素朴な暮らしを懐かしむのは、月から与えられた「罰」への抵抗でもあるのです。
五人の求婚者を退けるために無理難題を出すシーンも、男を惹きつける力という呪いへの反発と読み解けます。
こうした細部を知ることで、作品の奥行きが一層増しますね。
ラストシーンの深い意味
月の使者たちが迎えに来るラストシーンは、プロローグの設定を知ると全く違って見えます。
月の住人たちは美しく、穏やかで、一見理想的に見えます。
しかし彼らには表情がなく、感情の起伏が感じられません。
かぐや姫が地球での記憶を失い、同じように無表情になっていく様子は、生きることの豊かさを失う瞬間を象徴しています。
彼女が最後まで地球での記憶にしがみつこうとする姿は、観る者の心を強く揺さぶりますね。
キャッチコピーに込められた思い
「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーは、プロローグの内容を凝縮したものです。
ただし、このコピーには皮肉と愛情が同時に込められていることが分かります。
生きたいと願うことが罪なのか?
生きることが罰なのか?
この問いかけは、現代を生きる私たちにも向けられています。
苦しみや悲しみがあっても、それでも生きることには価値がある——これが作品の答えなのです。
まとめ
『かぐや姫の物語』のプロローグは、脚本段階で存在していたものの、高畑勲監督の判断で本編からは削除されました。
そこでは、かぐや姫が月で地球への憧れを抱いたことが罪とされ、罰として地球に送られる経緯が描かれていました。
プロローグを削除することで、作品は「生きること」そのものを肯定する普遍的なメッセージを持つようになりました。
観客は自ら想像し、考え、感じることで、より深く作品と向き合うことができるのです。
プロローグの内容を知ることで、かぐや姫の行動の一つ一つ、彼女が流す涙の意味、そして最後の選択の重さがより深く理解できます。
完璧な月の世界と、不完全だけれど美しい地球の対比を通して、作品は私たちに問いかけています。
苦しみも喜びも含めて、生きることの全てを受け入れられるかと。
これは高畑監督が私たちに残した、最も大切なメッセージなのです。
作品をもっと深く味わうために
プロローグの内容を知った今、もう一度『かぐや姫の物語』を観てみませんか?
きっと初めて観たときとは違う発見や感動があるはずです。
かぐや姫が野山を駆けるシーン、友達と遊ぶシーン、月を見上げるシーン——それぞれに新しい意味が見えてくるでしょう。
また、高畑勲監督の他の作品、『火垂るの墓』や『おもひでぽろぽろ』なども合わせて観ると、監督が一貫して描き続けたテーマが見えてきますよ。
生きることの美しさと切なさ、そして儚さ——これらは監督の全作品に通底するメッセージです。
『かぐや姫の物語』は、観るたびに新しい発見がある、奥深い作品ですね。
あなたなりの解釈を見つけて、この素晴らしい作品を心に刻んでください。
きっとこの物語は、あなたの人生の中で特別な意味を持つ作品になるはずです。