
高畑勲監督の『かぐや姫の物語』を観て、何か深い意味を感じたけれど、うまく言葉にできない。
そんな経験をされた方は多いのではないでしょうか。
この作品は古典「竹取物語」を下敷きにしながらも、映像の隅々まで多層的なメタファー(隠喩)で構成されているんですね。
月への帰還は何を意味するのか、捨丸と空を飛ぶシーンは何の比喩なのか、そしてかぐや姫の「罪」とは一体何だったのか。
この記事では、批評家や制作者のインタビューで語られてきた主なメタファーを整理して、作品に込められた深い意味を読み解いていきます。
かぐや姫の物語のメタファーとは?

『かぐや姫の物語』のメタファーは、生きることの痛みと喜び、感情の二面性、そして女性が背負わされる社会的役割の暴力性を、月と地上の対比を通して表現したものです。
かぐや姫は「罰として地上に落とされた存在」として描かれ、月への帰還は「死」や「無我への回帰」のメタファーとされています。
また、捨丸との飛翔シーンは性愛や心中の比喩であり、作品全体が「感情を持つことの祝福と呪い」という二重性を表現しているんですね。
なぜこれらがメタファーとして解釈されるのか?

かぐや姫は「生きることの痛み」を背負わされた存在
多くの批評家が強調するのが、「人の世そのものが罰」というメタファーです。
かぐや姫は月で罪を犯し、その罰として「人の世で苦しむこと」を科されて地上に落とされたと作中で語られます。
月から与えられた「男を惹きつける力」は、一見すると才能のように見えますが、本人が望まないまま男たちを狂わせ、自身を追い詰める呪いのメタファーとして描かれているんですね。
これは自分の意思とは無関係に与えられた属性・容姿・才能が、女性を苦しめる社会構造の比喩として読み取ることができます。
つまり、かぐや姫は生きること自体が罰であるような世界に投げ込まれた存在のメタファーであり、生・性・社会的役割が本人の選択を超えて与えられてしまうことの暴力性を体現しているんです。
月の世界は「無」と「涅槃」のメタファー
ラストでかぐや姫を迎えに来る月の使者たちは、仏教的なイメージを帯びた存在として描かれています。
月の世界は「不変・無垢・無感動」で、変化と腐敗を含む地上の"生"の対極にある無機質な状態を象徴しているとされています。
使者たちは如来・菩薩の姿を思わせ、彼らが連れて行く先は涅槃、すなわち「無我」の境地、つまり「無」のメタファーだという解釈があるんですね。
かぐや姫が羽衣を着せられ、地上での記憶と感情を失う場面は、感情を失う安らぎとしての死や無による苦しみからの解放という二重の意味を持っています。
このため、月への帰還は「死」や「抗えない運命」に呑み込まれていくメタファーとしても、苦しみからの解放としての涅槃のメタファーとしても解釈できるんです。
地上は「汚れた現実」と「生の豊かさ」の両面を持つ
作中で対比されるのが、地上と月の世界の価値観です。
月側から見れば、変化と欲望に満ちた地上は「穢れた世界」であり、そこへ落とされることが罰とされます。
しかし、かぐや姫自身は最後に「この星は汚れていない」と主張し、感情と自然に溢れる世界として肯定するんですね。
よって、地上は同時に苦しみ・束縛・暴力に満ちた「地獄」のメタファーでありながら、四季や愛情や喜びを含んだ「生の豊かさ」のメタファーという二重性を持つ世界として描かれています。
捨丸との飛翔シーンは性愛と願望のメタファー
もっとも分かりやすいメタファーとして多く指摘されるのが、かぐや姫と捨丸が空を飛ぶシーンです。
二人が着物を脱ぎ捨て、地面に並んで寝転がったカットから空へ飛翔する流れは、性愛のメタファーだとする論者がいます。
現実には叶わない駆け落ち・心中を、飛翔として描いた心中のメタファーとも解釈されているんですね。
別の読みでは、これはかぐや姫の主観の中での夢や願望の投影であり、「地上で愛する人と共に、四季を感じながら生きたかった」という切実な願望が凝縮された場面だとされています。
ここには身分制度や家父長制からの解放、禁じられた性愛、決して実現しない"もしも"の人生といった複数のメタファーが重ねられているんです。
「罪」は感情をもたらすことのメタファー
かぐや姫の「罪」の正体を、月に「起伏(感情の揺れ)」を持ち込んだことだとする詳細な読みもあります。
月世界は本来、起伏のない静かな世界であり、そこへ地上由来の「喜び・楽しさ」が持ち込まれてしまったと論じられるんですね。
その「起伏」こそ、生きた存在が持つ感情の動きであり、かぐや姫はその血を引く者として、月と地上をつなぐ存在だと解釈されています。
この読みでは、感情や喜びを世界にもたらすこと自体が罪であり、同時に世界に色彩を与える行為でもあります。
感情を持つがゆえに苦しみ、しかしそれなしでは生の意味も失われる。
つまり、感情そのものの二面性のメタファーとして物語が構成されているということなんです。
「無」と「ニセモノ」はアイデンティティのメタファー
作品には「無」や「存在しないもの」が頻出し、自己の空虚さやアイデンティティ不安のメタファーとして読む批評もあります。
5人の貴公子に「存在しない宝物」を持ってこさせるくだりや、かぐや姫が自分を「ニセモノ」と嘆く場面は、「無」を暗示していると指摘されているんですね。
夢のシーンが繰り返されること、ラストを「無」への帰還(涅槃)として読む批評もあり、「個」と「無我」の揺らぎがテーマとして浮かび上がります。
ここでは社会が期待する「理想の姫」という虚構の人格、本来の自分との乖離、最終的には「私」が溶解する無我といった、自己喪失・自己否定と救済のメタファーが重ねられているんです。
絵のスタイル自体が「生の瞬間性」のメタファー
高畑勲監督は、この作品で「想像力を促す余白の美学」を目指したとされています。
ラフな線や未完成感のある背景も、「瞬間的に移ろう生」のメタファーとして語られるんですね。
線が震え、塗りがはみ出すような画面は、「出来上がった完成品」ではなく、生まれ続ける途中の世界を感じさせる表現と分析されています。
余白の多い画面構成は、観客が自らイメージを補完する余地を残し、「答えを固定しない物語」であること自体のメタファーでもあるんです。
具体的なメタファーの事例
事例1:翁と媼の愛情と束縛
かぐや姫を育てる翁と媼の存在も、メタファーとして解釈できます。
翁は娘を幸せにしようとして都に連れて行き、貴族社会に適応させようとしますが、それがかぐや姫を苦しめる結果になります。
これは善意の押し付けや、親が子に期待する「幸せ」と子の望む「幸せ」のズレのメタファーなんですね。
翁が見つける竹の中の黄金は、経済的豊かさや社会的地位への欲望の象徴であり、それが家族を本来の幸せから遠ざけていく様子が描かれています。
媼はかぐや姫の気持ちをより理解していますが、それでも夫や社会の枠組みから自由になれない。
これは女性同士であっても、社会構造の中では互いを救えないという現実のメタファーとも読めるんです。
事例2:5人の貴公子が表す男性社会
かぐや姫に求婚する5人の貴公子たちは、それぞれ異なる男性性のメタファーとして描かれています。
彼らに「存在しない宝物」を要求するくだりは、男性たちの虚栄心や欺瞞を暴く装置として機能しています。
宝物を偽造したり、嘘をついたり、命を危険にさらしたりする様子は、女性を獲得するために手段を選ばない男性社会の醜さのメタファーなんですね。
特に帝の強引な求愛は、権力による性暴力のメタファーとして解釈されています。
かぐや姫が帝に抱きしめられた瞬間に透明になって消える場面は、拒絶の意思表示であり、同時に自己を守るために存在を消さざるを得ない女性の現実を象徴しているんです。
事例3:四季と自然の循環
作品全体を通して描かれる四季の移ろいは、地上の生命の循環と有限性のメタファーです。
かぐや姫が子供時代に野山を駆け回るシーンは、生の喜びと自由を象徴しています。
花が咲き、散り、また咲くという自然のサイクルは、変化と死を含むからこそ美しい「生」の本質を表現しているんですね。
これは不変で死のない月世界と対比され、かぐや姫が最後まで地上を肯定する根拠となっています。
桜の花びらが散るシーン、雪が降り積もるシーン、新緑の風景など、自然描写のすべてが「はかないからこそ尊い」というメタファーとして機能しているんです。
事例4:羽衣と記憶の喪失
月の使者が持ってくる羽衣は、感情と記憶を奪う装置として描かれます。
これは苦しみから解放される代わりに、自分自身を失うというメタファーなんですね。
かぐや姫が羽衣を着せられる前に必死に抵抗し、地上での記憶を取り戻そうとする姿は、アイデンティティを保とうとする最後の抵抗です。
しかし最終的には羽衣の力に屈し、無表情で微笑みながら月へ帰っていきます。
この場面は、社会や運命に個人が飲み込まれていく過程のメタファーであり、同時に死や忘却による平安の到来とも解釈できるんです。
地上に残された人々の悲しみと、感情を失ったかぐや姫の対比は、残される者と去る者、記憶する者と忘れる者の非対称性を表現しています。
事例5:わらべ歌「天人の歌」
作品の随所で歌われるわらべ歌も、重要なメタファーとして機能しています。
「鳥、虫、獣、草、木、花、人の情け」を歌うこの歌は、地上の生命とつながりの素晴らしさを表現していますね。
かぐや姫が最も幸せだった子供時代と結びついたこの歌は、失われた無垢と自由への郷愁のメタファーなんです。
月へ帰る直前、かぐや姫の脳裏にこの歌が蘇るシーンは、地上での生が決して無駄ではなく、彼女の魂に刻まれたことを示しています。
この歌自体が、感情と記憶の尊さ、そして生きることの意味を象徴するメタファーとして作品を貫いているんですね。
SNSでの反応と解釈
視聴者の多様な読み取り
『かぐや姫の物語』のメタファーについては、SNSでも様々な解釈が語られています。
「捨丸との飛翔シーンで初めて映画館で泣いた」「あれは明らかに性愛のメタファー」という声は多く見られます。
「月への帰還は死のメタファーだと思うと、あの無表情の笑みが怖すぎる」という感想もありますね。
また、「かぐや姫が女性として生きることの苦しみを描いた作品」「現代のジェンダー問題とも通じる」といった社会的な視点からの解釈も広がっています。
ファンの間では「地上は地獄であり天国でもあるという二重性が素晴らしい」「感情を持つことの祝福と呪いを同時に描いている」という声も多いんです。
絵のスタイルへの反応
高畑勲監督独特の絵のスタイルについても、多くの反応があります。
「あの線の震えが生きている感じがして好き」「未完成のような絵が逆に完璧」という評価が見られますね。
「余白の多さが想像力を刺激する」「何度観ても新しい発見がある」といった声もあります。
特に、激情を表現する走るシーンの崩れた線については、「感情の爆発が視覚化されている」という解釈が共有されています。
これらの反応は、形式そのものがメタファーとして機能しているという批評を裏付けているんですね。
罪と罰についての議論
かぐや姫の「罪」が何だったのかについては、視聴者の間でも活発に議論されています。
「感情を持ったことが罪なんて理不尽すぎる」「でもそれが人間の現実なのかも」という意見があります。
「地上を憧れたこと自体が罪とされるのが切ない」「生きたいと願うことが罰になる世界観」といった解釈も見られますね。
また、「罰として地上に落とされたのに、かぐや姫は地上を愛してしまった」という皮肉についても、多くの視聴者が感動と悲しみを表明しています。
「罪と罰の概念が逆転している」「本当の罰は月に帰ることだったのでは」という深い読みも共有されているんです。
まとめ
『かぐや姫の物語』のメタファーは、生きることの痛みと喜び、感情の二面性、女性が背負う社会的役割の暴力性など、多層的な意味を持っています。
かぐや姫は「望まぬ属性を背負わされ、生きること自体を罰として課された存在」のメタファーであり、月の世界は「無」や「涅槃」を、地上は「苦しみと豊かさが共存する生」を象徴しているんですね。
捨丸との飛翔シーンは性愛や心中、叶わぬ願望のメタファーとして、罪は「感情をもたらすこと」そのもののメタファーとして解釈されています。
また、5人の貴公子や帝は男性社会の問題を、羽衣は記憶とアイデンティティの喪失を、絵のスタイル自体が生の瞬間性と余白の美学をメタファーとして表現しているんです。
どのメタファーを重視するかで解釈が変わる作品ですが、それこそが高畑勲監督の意図した「観客の想像力を促す」作品の本質と言えるでしょう。
この作品を改めて観てみませんか?
『かぐや姫の物語』のメタファーを知った今、もう一度作品を観ると、初めて観たときとは全く違う景色が見えてくるかもしれません。
一つ一つの場面、セリフ、絵のタッチに込められた意味を感じながら観ると、この作品がいかに深く練り上げられているかが分かります。
あなた自身の人生経験や価値観によって、感じるメタファーも変わってくるでしょう。
それこそが、この作品が多くの人に愛され続ける理由なんですね。
ぜひ、あなたなりの解釈を見つけてみてください。
きっと、かぐや姫の物語はあなたに何か大切なことを語りかけてくれるはずです。