
スタジオジブリの映画『かぐや姫の物語』をご覧になって、都でかぐや姫に礼儀作法や化粧を教える女性たちが印象に残った方も多いのではないでしょうか。
あの女性たちは「女官」と呼ばれる、平安時代の宮廷に仕える女性官人です。
しかし、映画の中での彼女たちの役割は、単なる時代考証の再現にとどまりません。
実は、高畑勲監督は女官たちを通じて、平安社会における女性の立場や、男性中心社会の構造を浮き彫りにしています。
この記事では、『かぐや姫の物語』における女官の描かれ方や、彼女たちが物語の中で果たす象徴的な役割について詳しく解説していきます。
『かぐや姫の物語』における女官の役割とは

映画『かぐや姫の物語』に登場する女官たちは、かぐや姫を「理想的な姫」に仕立て上げる教育係として描かれています。
具体的には、白粉や引眉、お歯黒などの化粧を施し、歩き方や話し方、立ち居振る舞いまで徹底的に矯正する役割を担っています。
彼女たちは、平安時代の宮廷社会が求める「女性らしさ」を体現し、それをかぐや姫に教え込む存在として機能しています。
また、女官たちは帝や公達といった男性権力者が望む「理想の女性像」を代弁し、かぐや姫をその型にはめようとします。
これは、女性自身が男性中心社会の価値観を内面化し、それを次世代の女性に再生産していく構造を象徴的に表しています。
なぜ女官たちはこのように描かれたのか

原典『竹取物語』における女官の位置づけ
原典の『竹取物語』では、帝がかぐや姫の様子をうかがう際、直接訪れるのではなく、内侍司(ないしのつかさ)という高級女官に見に行かせる場面があります。
これは、帝が女性の私的空間に直接踏み込むことがタブーとされていた一方で、宮中女官は「公的な視線」を持つ媒介役として機能していたことを示しています。
つまり、女官は男性権力と女性の私的空間をつなぐ中間的な立場にあり、男性が直接関与できない領域に代わって入り込む役割を担っていたのです。
高畑勲監督のジェンダー批評的な演出
高畑勲監督は、この原典の構造を踏まえつつ、女官たちをより批評的な視点で描いています。
映画では、女官たちは単なる礼儀作法の教師ではなく、かぐや姫の身体と精神を「規格化」する存在として表現されています。
彼女たちは、かぐや姫に対して以下のような「教育」を施します。
- 白粉で顔を真っ白に塗り、眉を剃り、歯を黒く染める
- 自然な歩き方ではなく、小股で控えめに歩くよう指導する
- 感情を表に出さず、静かに微笑むことを求める
- 男性(公達や帝)からの求婚を受け入れることが女性の幸せだと教える
これらの教育は、かぐや姫が山で自由に駆け回り、笑い、泣いていた姿とは対極にあります。
女官たちの「教育」によって、かぐや姫は次第に自分らしさを失い、男性社会が求める「人形のような姫」へと変えられていくのです。
男性権力の代行者としての女官
女官たちは、直接的な暴力は振るいませんが、帝や公達が望む「理想の姫像」に合わせて姫の身体と振る舞いを調整する存在です。
彼女たちは、男性社会の価値観を内面化し、それを当然のこととして受け入れています。
そして、その価値観をかぐや姫にも押し付けることで、男性中心社会の秩序を維持する役割を果たしているのです。
特に印象的なのは、かぐや姫が「なんでふ、さることかしはべらん」(どうしてそんなことをしなければならないのでしょう)と結婚を拒絶する場面です。
この問いかけは、「女の幸せ」という規範そのものへの根本的な疑問であり、女官たちが当然視している価値観への挑戦となっています。
『かぐや姫の物語』における女官描写の具体例
化粧と装束の強制シーン
映画の中で最も印象的なシーンの一つが、かぐや姫に化粧を施す場面です。
女官たちは、かぐや姫の自然な美しさを隠すかのように、白粉を厚く塗り重ねていきます。
かぐや姫は鏡に映る自分の姿を見て、まるで別人になったような表情を浮かべます。
このシーンは、「女性らしさ」が自然なものではなく、社会によって作り上げられた規格品であることを視覚的に表現しています。
また、重ね着された十二単の重さは、かぐや姫の身体的な自由を奪い、動きを制限します。
これは物理的な拘束であると同時に、女性が社会から課せられる様々な制約の象徴でもあるのです。
礼儀作法の訓練シーン
女官たちは、かぐや姫に対して徹底的な礼儀作法の訓練を行います。
歩き方、座り方、お辞儀の仕方、言葉遣いなど、あらゆる動作に細かい規則が定められています。
かぐや姫が山で自由に走り回っていた姿とは対照的に、都での彼女の動きは極めて制限されたものになっていきます。
この訓練の過程で、かぐや姫は自分の意志や感情を抑え込むことを学ばされていきます。
女官たちにとっては、これらの作法は「当たり前」のものであり、疑問を持つ余地すらありません。
帝の訪問と女官の反応
帝がかぐや姫を見初め、強引に抱きすくめるシーンでも、女官たちの役割が明確に描かれています。
帝は「私がこうすることで喜ばぬ女はいなかった」と言い放ちますが、これは女性の同意を前提としない男性の自信の表れです。
そして、この「男性の自信」を支えているのが、周囲の宮中秩序であり、その中核に女官たちの同調と協力があるのです。
女官たちは、帝に見初められることを「無上の喜び」と考え、かぐや姫にもそれを期待します。
しかし、かぐや姫は帝の接触に恐怖を感じ、思わず姿を消してしまいます。
この対比によって、女官たちが代弁する「女の幸せ」と、かぐや姫が感じる現実との乖離が浮き彫りになるのです。
SNSや評論での女官に関する意見
フェミニズム的視点からの評価
現代の批評では、『かぐや姫の物語』はフェミニズム的な物語として再解釈されており、その中で女官たちは重要な対照軸として注目されています。
かぐや姫は、求婚や結婚を拒否し、自分の身体や人生を自分で決める権利(自己決定権)を主張する存在として読まれています。
一方、女官たちは「結婚こそ女の栄誉」「帝に見初められることは無上の喜び」という価値観を当然視しており、主体的に見えるが実は男性中心社会の規範を支える役割を担っています。
この対比によって、映画は以下のような構図を際立たせています。
- 「女官的な生き方」=規範を内面化した女性
- 「かぐや姫」=その規範そのものに異議申し立てをする女性
「女が女を抑圧する」構造への気づき
SNSでは、「女官たちは男性に直接命令されているわけではないのに、自ら進んでかぐや姫を抑圧している」という指摘が多く見られます。
これは、家父長制社会において、女性自身が抑圧の担い手となってしまう構造を示しています。
女官たちは、自分たちが受けてきた教育や価値観を疑うことなく、それを次世代に伝えることで、抑圧的な社会構造を維持してしまっているのです。
この「女が女を抑圧する」構造は、現代社会にも通じる普遍的なテーマとして、多くの視聴者の共感を呼んでいます。
高畑勲監督の意図への評価
高畑勲監督が、女官たちを単なる「悪役」としてではなく、社会構造の一部として複雑に描いた点が高く評価されています。
女官たちは、決して悪意を持ってかぐや姫を苦しめているわけではありません。
むしろ、彼女たちは「姫のため」「姫の幸せのため」と信じて行動しています。
しかし、その「善意」が、実は男性中心社会の価値観に基づいたものであり、かぐや姫の真の幸せとは相反するものだったのです。
この複雑な構造を描くことで、高畑監督は単純な善悪二元論を超えた、より深い社会批評を行っていると言えます。
まとめ:女官が象徴するもの
『かぐや姫の物語』における女官たちは、平安時代の宮廷社会に仕える女性官人としての歴史的リアリティと、現代的なジェンダー批評が重ねられた存在です。
彼女たちは、かぐや姫を「理想的な姫」に仕立て上げる教育係として、化粧や礼儀作法を徹底的に教え込みます。
これは、「女性らしさ」が自然なものではなく、社会によって作り上げられた規格品であることを象徴しています。
また、女官たちは男性権力の直接的な支配者ではないものの、男性中心社会の価値観を内面化し、それを再生産する役割を担っています。
原典『竹取物語』では、女官は帝と女性の私的空間をつなぐ媒介役として登場しますが、映画ではその構造をより批評的に描き出しています。
現代のフェミニズム的な読みでは、女官たちはかぐや姫の抵抗を浮き彫りにする対照的存在として位置づけられています。
かぐや姫が「なぜそんなことをしなければならないのか」と問いかける姿勢は、女官たちが当然視する「女の幸せ」規範への根本的な疑問であり、自己決定権の主張なのです。
映画を見返すときのポイント
『かぐや姫の物語』を改めてご覧になる際は、ぜひ女官たちの描かれ方に注目してみてください。
彼女たちの言葉や振る舞いの一つひとつに、高畑勲監督の繊細な演出意図が込められています。
女官たちは決して悪役ではありません。
彼女たちもまた、男性中心社会の構造の中で生きる女性であり、その価値観を内面化せざるを得なかった存在なのです。
かぐや姫と女官たちの対比を通じて、私たちは「当たり前」と思っている価値観を問い直すきっかけを得ることができます。
そして、それは平安時代だけでなく、現代社会にも通じる普遍的なテーマでもあります。
ぜひ、この視点を持って映画を見返してみてください。
きっと、初めて観たときとは違う発見や感動があるはずですよ。