
高畑勲監督による『かぐや姫の物語』を観た方なら、捨丸という青年の存在が心に残っているのではないでしょうか。
幼少期のかぐや姫と共に山で過ごし、成長後に再会する捨丸は、物語の中で特別な位置を占めています。
彼の存在は単なる幼馴染以上の意味を持ち、姫の罪や地上への想い、そして月への帰還という物語の核心に深く関わっているとされています。
この記事では、『かぐや姫の物語』における捨丸の役割を多角的に考察し、高畑監督が込めた意図や、姫との関係性が持つ象徴的な意味を解き明かしていきます。
原作『竹取物語』にはない捨丸というキャラクターが、なぜこの物語に必要だったのか、その答えがここにあります。
捨丸はかぐや姫の地上への想いを象徴する存在

捨丸は、かぐや姫が地上に抱く憧れと生きる喜びを象徴する重要な存在です。
高畑勲監督の『かぐや姫の物語』では、原作『竹取物語』にはない捨丸というキャラクターが登場し、姫の内面を理解するための鍵となっています。
捨丸は姫にとって、山で自由に遊んだ幼少期の象徴であり、都で窮屈な生活を強いられる姫が本当に求めていた「生きる喜び」そのものを体現しているのです。
姫が月へ帰らなければならない理由として「地上への想い」という罪が描かれますが、その想いの中心にいるのが捨丸だと言えるでしょう。
なぜ捨丸が姫の物語に必要だったのか

原作『竹取物語』の限界を超えるために
原作『竹取物語』のかぐや姫は、感情が薄く、求婚者たちに無理難題を課し、最終的に何の未練もなく月へ帰っていきます。
この「理解不能な姫」を現代の観客が共感できるキャラクターにするため、高畑監督は姫の内面を描く必要がありました。
そこで生まれたのが捨丸という存在です。
捨丸がいることで、姫には明確な「地上での思い出」と「失ったもの」が生まれ、観客は姫の苦悩を理解できるようになったのです。
姫の罪の源流としての捨丸
映画では、かぐや姫が月から地上に落とされた理由が「罪」として描かれています。
この罪について、複数の解釈が存在しますが、その中で注目されるのが「地上への憧れそのものが罪だった」という考え方です。
月の世界は清浄で感情の起伏がない場所とされていますが、姫は地上の生命力や喜怒哀楽に憧れを抱いてしまいました。
その憧れの象徴が、幼少期に出会った捨丸との自由な日々だったのです。
捨丸と過ごした時間は、姫にとって「生きている」ことを実感できる唯一の体験であり、それゆえに月の世界の価値観からすれば「罪」とされたという解釈が成り立ちます。
成長後の再会が持つ意味
物語の中盤、都で貴族の姫として生きることに絶望したかぐや姫は、逃げ出した先で成長した捨丸と再会します。
この再会シーンは、映画の中でも特に重要な場面です。
捨丸はすでに妻子がおり、姫との関係は叶わないものとなっていますが、二人は一瞬だけ空を飛び、かつての自由を取り戻します。
この場面は、姫が本当に求めていたものが都の豪華な暮らしではなく、捨丸と過ごした山での自由な日々だったことを明確に示しています。
しかし同時に、その願いが叶わないことも突きつけられ、姫は自らの想いが「罪」であることを自覚するのです。
月への帰還と捨丸の記憶
映画のクライマックスで、かぐや姫は天の羽衣を着て月へ帰ります。
この羽衣を着ると、地上での記憶や感情がすべて消えてしまうとされています。
つまり、捨丸との思い出も、山での自由な日々も、すべて忘れてしまうのです。
仏教的な解釈では、これは煩悩を捨てて悟りを開く過程とされていますが、観客の多くはこれを「悲劇」として受け止めます。
なぜなら、姫が本当に求めていたものを忘れさせられることは、姫の存在そのものを否定することに等しいからです。
捨丸という存在があったからこそ、この結末の悲しさが際立つのです。
具体的な考察と解釈の広がり
捨丸は姫の「前世」という解釈
一部の考察では、捨丸が姫の「前世」や「罪の源流」を示唆する存在として語られることがあります。
この解釈によれば、月の世界の天女が地上に降り、羽衣伝説のように人間と関わりを持ったことで子孫を残し、その血筋から生まれたのが捨丸(または捨丸につながる存在)だったとされます。
その子孫が月の世界に「楽しさ」や「感情の起伏」という概念を持ち込んだ結果、月の清浄さを乱したとして罰せられたというのです。
この解釈では、かぐや姫自身が捨丸の生まれ変わり、あるいは関連する魂であり、地上への憧れは必然だったということになります。
非常に複雑な解釈ですが、姫が地上に生まれた理由と捨丸との運命的な出会いを説明する一つの視点として興味深いものです。
ジェンダー論から見た捨丸の役割
『かぐや姫の物語』は、女性の自由と抑圧をテーマにした作品としても読み解くことができます。
かぐや姫は、翁の期待や求婚者たちの視線、そして「女の幸せは結婚」という価値観に縛られ、自由を奪われていきます。
その中で捨丸は、姫が唯一対等な関係を築けた相手として描かれています。
山で遊んでいた頃、捨丸と姫の間に身分の差や性別による役割の違いはありませんでした。
しかし都に出てからの姫は、「姫君」として男性の視線の対象となり、自分の意志で生きることができなくなります。
捨丸との再会シーンで空を飛ぶ場面は、姫が束の間、そうした抑圧から解放される瞬間を表しているという見方もあります。
この視点から見ると、捨丸は姫が本来持っていた自由な魂の象徴であり、社会に抑圧される前の「本当の自分」を思い出させる存在なのです。
捨丸への想いが「地上そのものが罰」という解釈につながる
映画の考察の中で特に深いのが、「地上に生まれること自体が罰だった」という解釈です。
この考え方では、かぐや姫は「男を惹きつける呪い」とともに地上に落とされ、自由を奪われることが罰の内容だったとされます。
姫は美しく生まれたがゆえに、翁の期待、求婚者たちの欲望、帝の執着など、常に他者の視線と欲望にさらされ続けました。
そして皮肉なことに、姫が本当に心を通わせたいと思った相手(捨丸)とは結ばれることができませんでした。
つまり、生きること自体が苦しみであり、それが罰だったという解釈です。
この解釈において捨丸は、姫が「本当に生きたかった人生」を象徴しつつ、それが決して手に入らないことを示す存在となっています。
SNSやファンの間での捨丸に関する声
『かぐや姫の物語』公開以降、SNSやブログでは捨丸に関する様々な意見が交わされています。
「捨丸との再会シーンが切なすぎて涙が止まらなかった」という感想や、「捨丸に妻子がいたことで、姫の孤独がより深まった」という分析が多く見られます。
また、「捨丸は姫の初恋であり、唯一の心の拠り所だった」という解釈や、「捨丸がいなければこの物語は成立しなかった」という意見も根強くあります。
ファンの間では、「もし捨丸が独身のままだったら」「もし姫が都に行かなかったら」といったif展開を想像する声も少なくありません。
それだけ捨丸という存在が、観客の心に深く刻まれたキャラクターだということでしょう。
高畑監督の意図と捨丸の設計
高畑勲監督は、原作『竹取物語』の疑問点を解明することを目指して本作を制作しました。
「なぜ姫は地上に来たのか」「なぜ月へ帰らなければならないのか」という疑問に対する答えとして、監督は「地上への想い」を罪として設定しました。
そして、その想いを具体化するために生み出されたのが捨丸というキャラクターです。
捨丸がいることで、姫の地上への執着は抽象的な概念ではなく、具体的な人物との思い出や感情として観客に伝わります。
監督は「理解できる姫」を描くために、姫視点で物語を再構築し、その中心に捨丸を置いたのです。
まとめ:捨丸はかぐや姫の物語の核心
『かぐや姫の物語』における捨丸は、単なる脇役ではなく、物語の核心に関わる重要な存在です。
捨丸は、かぐや姫が地上に抱いた憧れと生きる喜びの象徴であり、同時に叶わぬ想いの対象でもあります。
姫が月から地上に落とされた「罪」の源流として、また姫が本当に求めていた自由と対等な関係を体現する存在として、捨丸は描かれています。
高畑勲監督は、原作『竹取物語』の「理解不能な姫」を現代の観客が共感できるキャラクターにするために、捨丸という架空の人物を創造しました。
その結果、姫の内面が鮮明になり、月への帰還という結末がより深い悲しみを持つようになったのです。
捨丸への想いがあったからこそ、姫の苦悩も、地上での生の輝きも、そして最後に記憶を失う悲劇も、すべてが心に響くものとなりました。
この物語をもう一度観てみませんか
『かぐや姫の物語』は、観るたびに新しい発見がある作品です。
捨丸の存在を意識しながらもう一度観ると、姫の表情や言葉の一つひとつに込められた想いが、より深く伝わってくるはずです。
山での自由な日々、都での窮屈な生活、そして捨丸との再会と別れ。
それらすべてが、かぐや姫という一人の女性の人生を描いた物語として、改めて心に響くでしょう。
高畑勲監督が遺したこの名作を、ぜひもう一度味わってみてください。
そして、あなた自身の「捨丸」への解釈を深めてみてはいかがでしょうか。