
高畑勲監督のスタジオジブリ作品『かぐや姫の物語』を見て、「原作の『竹取物語』とはずいぶん雰囲気が違う」と感じた方は多いのではないでしょうか。
確かに竹から見つかって月に帰るという大筋は同じですが、実は登場人物の性格やテーマ、そして物語の焦点が大きく変えられているんですね。
この記事では、映画版と原作との違いを具体的に比較しながら、なぜそのような改変が行われたのか、それによって作品がどう変化したのかを詳しく解説していきます。
原作を読んだことがある方も、映画だけを見た方も、両作品の魅力がより深く理解できる内容となっていますよ。
映画版と原作の最大の違いとは
『かぐや姫の物語』と原作『竹取物語』の最大の違いは、物語の焦点が「出来事の記録」から「かぐや姫の内面と生きる実感」へと大きく変わっている点です。
原作は起こった出来事を淡々と語る説話文学ですが、映画は田舎での暮らしや姫の感情の動きを丁寧に描き、当時の女性が抱える生きづらさをテーマの中心に据えています。
また、かぐや姫の性格も原作では気高く計算高い女性として描かれていましたが、映画では自由を求める活発な少女から、社会に抑圧されて苦悩する女性へと変化していくんですね。
さらに映画では、幼なじみの捨丸というオリジナルキャラクターや、帝との関係性の描き方なども大きく変更されています。
なぜこれほど大きな違いが生まれたのか
物語の焦点の転換:出来事から内面へ
原作『竹取物語』は、日本最古の物語文学として、当時の説話や伝承をまとめた作品です。
そのため、人物の内面描写はほとんどなく、「竹から見つかった」「五人の貴公子が求婚した」「月に帰った」という出来事の記録として語られているんですね。
一方、映画では高畑勲監督が意図的に、田舎での幼少期の野山での暮らしや、都での日常生活を非常にていねいに描写しています。
かぐや姫の喜び、怒り、絶望といった感情の動きを中心に据えることで、同じ筋をなぞりながらも全く違う印象の作品に仕上がっているとされています。
かぐや姫という人物像の再構築
原作のかぐや姫は、おしとやかで気高く、求婚者たちに辛辣な態度を取る強い女性として描かれています。
深窓の姫らしく淡々と求婚をあしらい、結果として男性側が滑稽になるような構成なんですね。
しかし映画版では、幼少期から行動的でおてんばな少女として登場します。
成長後も貴族社会の作法に縛られることに強い違和感と苦痛を覚え、自由に生きたいという欲求を持ち続けるんです。
原作の「超然とした高潔な姫」から、「苦悩し、傷つき、絶望する一人の女性」へと像が大きく変えられています。
家族関係と日常描写の重視
原作では、竹取の翁と嫗はかぐや姫を慈しみますが、家庭の日常や内面は細かくは描かれていません。
都に移り住んだかどうかもはっきり書かれておらず、あいまいな描写にとどまっているんですね。
映画では、田舎の農村生活から都の屋敷での生活への移行がはっきり描かれ、翁が姫のために都に屋敷を建てる過程が物語の重要な要素となっています。
翁・媼との感情豊かな関係が物語の核に据えられ、親子の愛情とすれ違いが主要テーマとなっているんです。
原作では周辺的だった「家族の物語」が、映画では中心に引き上げられていると言えますね。
五人の貴公子エピソードの大幅な省略
原作では、五人の求婚者それぞれに不可能な宝探しを命じるエピソードが詳細に語られ、風刺的でユーモラスな部分が大きな比重を占めています。
貴公子たちとの出会いから3年、帝との文通3年と、少なくとも6年以上の時間経過が描かれるんですね。
しかし映画では、このエピソードが大幅に省略されています。
むしろ野山での暮らしや都での抑圧された日常の方に時間を割いており、「貴族風刺」よりも「姫自身の内面・生活感覚」に重点を移した改変となっています。
求婚を断る理由の変化
原作のかぐや姫は、自分が月に帰る運命であることを最初から知っており、だからこそ結婚はできないと悟っています。
そのうえで五人の貴公子に無理難題を課し、現実には嫁がない道を取るんですね。
一方、映画版のかぐや姫は「いつか月に帰る」ことを自覚していない段階で求婚を受ける設定になっています。
求婚を断る主な理由は「誰も好きではないから、心が動かないから」という、より感情に根ざしたものになっているんです。
運命を知る超越的存在から、好きでもない相手とは結婚しないと考える現代的感覚を持つ女性像にシフトしていますね。
帝との関係性の大きな改変
原作では、帝はかぐや姫に深く惹かれ、姫も完全に拒絶しているわけではありません。
3年間にわたって和歌のやりとりを続ける恋人のような関係が描かれ、帝は最後には月の使者を追い払おうとする強く高貴な存在として描かれています。
しかし映画では、帝がかぐや姫に身体的に迫る場面があり、姫はそれを強く拒絶します。
「気持ち悪い」「恐怖」として描かれ、文通や穏やかな交流は描かれず、帝が抑圧的権力としての側面が際立っているんですね。
原作では微妙な好意と距離の関係だった帝が、映画では姫が月に帰りたいと願ってしまうきっかけの一つになるほど、ネガティブ寄りに描かれています。
「罪と罰」の具体化とテーマ化
原作でも映画でも、かぐや姫がもともと月の住人であり、罪を犯したために地上に下ろされたという設定は共通しています。
しかし原作では、どんな罪かはほとんど具体的に描かれず、あいまいなまま「罪の期限が過ぎたので帰る」という説明のみなんですね。
映画では、かぐや姫の罪が物語全体でテーマ的に具体化されています。
人間世界の苦しみや喜びを知り、ここに生きることを望んでしまったこと、あるいは生を否定し月へ帰りたいと強く願ってしまったことなどが描かれているんです。
特に帝に迫られ絶望して「こんな世界など消えてしまえばよい」と強く願ったことが、月への迎えを早める要因として描かれるなど、姫の感情と「罪」が直結しています。
原作では抽象的だった「罪と罰」が、映画では"生きることをどう受け止めるか"というテーマと結びつけて再構成されているんですね。
具体的な改変ポイントと視聴者の反応
オリジナルキャラクター「捨丸」の登場
映画では、田舎時代の幼なじみ「捨丸」との関係が、大きなオリジナル要素として加えられています。
捨丸は、かぐや姫にとって本当に心を通わせた相手であり、「もし自由に生きられたなら」という可能性を象徴する存在なんですね。
原作には、こうした幼なじみの男性キャラクターは登場しません。
この追加は単なる恋愛要素ではなく、「別の生の可能性」や「選べない運命」を視覚化するために創出されたキャラクターと評価されています。
捨丸との再会と別れのシーンは、多くの視聴者の心に深く残る場面となっていますよね。
裕福になる経緯の描写の違い
原作では、姫を見つけて以降、翁が竹を取るたびに節ごとに金の入った竹を見つけ、次第に裕福になると記されています。
映画では、竹から黄金や着物などが直接出てくる描写があり、より視覚的でファンタジー的に表現されているんですね。
また、原作では明確に「都へ引っ越した」とは書かれず、あいまいな描写でしたが、映画では翁が姫のために都に屋敷を建てて移り住む過程が詳しく描かれています。
身分上昇志向とそれによる姫の苦悩が、物語の重要要素になっているんです。
月に帰るタイミングと内面の関連性
原作では、タイムリミットは当初から「八月十五日」と明言され、迎えは予定通りに来ます。
帝の命による武士の守りも虚しく、月の使いが姫を連れ帰り、最後に不老不死の薬を帝に渡し、帝はそれを富士山で焼かせるという結末があるんですね。
映画では、迎えの日付があらかじめ決まっている構造は踏襲しつつ、「帝のセクハラ的行為への恐怖と絶望から、姫が"月に帰りたい"と強く願ったこと」が引き金として強調されます。
内面要因が強く描かれ、富士山での不老不死の薬を焼く場面は登場せず、帝との関係性やラストの象徴性が変わっているんです。
テーマの転換:説話集から社会批評へ
原作『竹取物語』は、求婚譚・天人譚などを組み合わせた説話的・寓話的な作品です。
帝をはじめ権力者を含む男性たちを軽く風刺しつつも、基本的には淡々とした語りで、特定の思想を強調していません。
一方、映画では高畑勲監督が原作を下敷きにしながら、以下のような現代的テーマを浮かび上がらせています。
- 当時の女性の生きづらさ
- 男性中心社会の抑圧
- 「生きることの歓び」とそれを奪う社会の対立
そのため、帝像やかぐや姫の性格が原作よりシビアで現代的に改変されている点が、批判も含めて議論の対象になっているんですね。
視聴者の評価の分かれるポイント
原作ファンからは、さまざまな評価が寄せられています。
肯定的な意見としては、「原作にない姫の心情が描かれて、より感情移入できる」という声があります。
一方で、「原作のかぐや姫の気高さや帝の格を弱めてしまっている」「原作の雰囲気とは違う」という否定的な評価も示されているんですね。
特に帝の描写については、原作では和歌のやりとりを通じた恋愛的な要素があったのに対し、映画では権力による抑圧の象徴として描かれている点が大きな違いとして指摘されています。
アニメーション表現による新たな魅力
映画『かぐや姫の物語』は、水彩画のような独特のタッチで描かれています。
このアニメーション表現によって、かぐや姫の感情の激しさや、自然の美しさ、都での生活の息苦しさなどが視覚的に強調されているんですね。
特に姫が屋敷から飛び出して走るシーンは、線が荒々しく崩れていくことで彼女の感情の爆発を表現しており、原作にはない映像作品ならではの魅力となっています。
映画版は原作の「解題」として作られた
『かぐや姫の物語』と原作『竹取物語』の違いをまとめると、映画版は筋立ては原作に忠実ですが、「かぐや姫をどういう女性として描くか」「彼女の罪と罰をどう解釈するか」を大きく作り替えた作品となっています。
高畑勲監督は、原作を単に映像化するのではなく、当時の女性の生きづらさや社会の抑圧を浮かび上がらせる「解題」として再構成したとされているんですね。
そのため、以下のような大きな変更が加えられています。
- 物語の焦点を「出来事の記録」から「姫の内面と生きる実感」へ転換
- かぐや姫の性格を「気高く超然とした姫」から「苦悩する一人の女性」へ変更
- 家族関係と日常描写を物語の中心に据える
- 帝を恋愛の相手から抑圧的権力の象徴へ変更
- 「罪と罰」を「生きることの意味」というテーマと結びつける
- 捨丸というオリジナルキャラクターを通じて「選べない運命」を描く
結果として、原作とはかなり違うテーマ性と感情の重さをもつ物語になっているんです。
原作が淡々とした語りの説話文学であるのに対し、映画は一人の女性の人生を通して「生きることの歓び」と「それを奪う社会」を描いた社会批評的作品と言えますね。
両作品それぞれの魅力を味わってみませんか
『かぐや姫の物語』と原作『竹取物語』は、同じ骨格を持ちながらも全く異なる魅力を持つ作品です。
映画を見て感動した方は、ぜひ原作も読んでみてください。
シンプルながら気品ある文章で語られる物語と、計算高く強いかぐや姫の姿に、新たな発見があるはずです。
逆に原作を先に知っている方は、映画で描かれる姫の感情の動きや、現代的な視点からの再解釈に触れることで、この古典の新しい側面が見えてくるでしょう。
どちらか一方だけではなく、両方に触れることで、『竹取物語』という物語の奥深さと、時代を超えて語り継がれる理由がより深く理解できますよ。
あなたもぜひ、両作品を比べながら、それぞれの魅力を味わってみてくださいね。